ユーフォニアムの歴史 各論 〜「日本初のユーフォニアムはユーホネン」!?

 

 ユーフォニアム奏者の深石宗太郎氏が、日本に最初に届いた樂器は「ユーホネン」と呼ばれたといふことを、當サイトの談話室にて紹介してくれた。その根拠は、明治3年の資料にあり、中村理平『洋楽導入者の軌跡』(刀水書房 平成5年初版) に掲載されてゐるとのことだった。事の次第はかうだと言ふ。

 

作曲家の小山作之助の著作「国歌君が代の由来」昭和16年 の文献の中に、明治4年に入団した折田徳道作の薩摩藩楽隊名簿が挿入されているそうです。それをさらに「洋楽導入者の軌跡」で又写しをしています。

それで、この折田徳道作成の名簿というのが、明治3年に病没した森山隊員の墓前に隊員の名前を彫ったお寺の献灯からの名簿の写しだそうです。活字でなく、コピーを写したような不鮮明な文字ですが、

尾崎 惟徳 中位大ナル楽器ニシテ (ユーホネン)ト称セシナラン

と読む事が出ます。

談話室過去ログより原文のママ

 

 深石氏によれば、明治3年の資料であることから、ユーフォニアムの名を記した最古の資料と判斷出來る、よって、ユーフォニアムの最初の呼稱は「ユーホネン」であるといふ結論であった。

 「Euphonium」がユーフォニアム、ユーフォニウム、ユーホニューム、ユーホーニオン、ユーフォニオンなどと表記されるのは、元の發音の範圍からさう遠くはないと思ふのだが、どうも、「ユーホネン」といふ表記は氣にかかる。深石氏は、文豪の「ゲーテ」が、様々にカタカナ表記をされた例を出すのだが、「nium」を「ネン」と表記するのは、かけ離れてゐるやうに私は感じた。*1 大したことではないかも知れないし、もとより氏の見解を否定するものではないが、書かれてあることを鵜呑みにせず、「おや?」と思ふことは自ら徹底して調べるのが、歴史を研究する者の態度として必要であらう。極小さなことを丁寧に調べることによって、實は澤山の發見がなされるものだからだ。

 

 「ユーホネン」の出典

 そこで、中村氏の『洋楽導入者の軌跡』(刀水書房 平成12年初版2冊)を入手して、確認してみた。

 中村氏によれば、軍楽手傳習生の一人、森山孫十郎樂手が、最初の樂器が届く前の明治3年に病没し、墓前に献燈が建てられ、その献灯に、當時の傳習生の名前と献辭が掘られてゐるといふ。さらに、『國歌君が代の由來』(昭和16年)を記した作曲家、小山作之助(小山眞津)氏が、明治4年に樂手として入團した折田徳道氏に、献燈にある隊員の名前を元に、擔当樂器を加へた名簿を作成するやう要望し、その名簿を『國歌君が代の由來』に掲載した旨が書かれてゐる。*2

 といふことは、献燈には隊員の名前が掘られてゐるのであって、擔當樂器の記載はない筈である。後に折田氏が擔當樂器を加へた名簿を作成し、小山作之助に提出、小山はそれを自著に掲載、さらにそれを中村理平が引用し、掲載したといふことになる。つまり「ユーホネン」といふ表記を辿っていくと、折田徳道氏までは行き着くが、そこから先が不明なのである。では、折田氏が名簿を作成したのはいつかといふことになる。これは、後に述べるとして、まづは、その献燈そのものを辿ってみたい。

 

 森山孫十郎樂手献燈碑

 幸い、この献燈は現存してゐて、平成19年2月、杉並区にある「大圓寺」を訪問し、拜む事が叶った。中村氏は前掲書で、墓地の一隅にあると記載してゐたが、なかなか場所が判明しなかった。こちらの樣子を怪しげに伺ってゐた、お寺の先代住職の弟さんが、見かねて助け船を出して下さり、やうやく判明した。我が國最初のユーフオニアム奏者、そして最初の吹奏樂隊員のお名前を拜し、背筋が伸びる思ひがした。手を合はせ、名乘りをあげてから、寫眞を取らせて頂いた。

 

森山孫十郎の墓前にあったといふ献燈。
墓石は今となっては所在不明、献燈のみが現存。
『國歌君が代の由來』に掲載の、
折田徳道氏の手紙によれば、
献燈に記された名前は傳習生全員(30名)
とのことである
勿論日本最初のユーフォニアム奏者
「尾崎惟徳」氏の名も刻まれてゐる。

 やはり、この献燈には、擔當樂器名までは記載されてゐなかった。

 この献燈がいつ建てられたのかを調べてみることにした。献辭の最後に、年月日が記してある筈だが、表面の一部が崩れてゐて、肝心の年がわからなかった。そこで、小山作之助(小山眞津)『國歌君が代の由來』(昭和16年初版)を入手して、調べてみた。幸い、献辭の全文が大圓寺の執事により記載されてをり、明治三庚午正月十有五日と結んである。*3 献辭は、森山樂手の病没(明治3年1月12日)から數日で贈られたものであることを示してゐる。この献燈が建てられた年代は不明なままだが、墓前にあった献燈だとするなら、森山樂手の死から、さう年月は離れてはゐないのではないかと想像する。

 余談になるが、それにしても、立派な献燈で、境内の他の献燈よりも、しっかりとした造りである。掘られた文字も鮮明で、軍人さんのお姿が傳って來る思ひである。背筋が伸びたのも、當然だったのかもしれない。まるで、多くの同胞に、その足跡を辿って貰ひたいと願ってゐるがごとく、靜かに、しかし堂々と佇んでゐる。

 殘念ながら、石に染み込んだ水が氷となって膨張するらしく、表面が割れてしまってゐる。このまま放っておけば、他の献燈や墓石同樣、いづれは文字も讀めなくなってしまふ。中村氏も『洋楽導入者の軌跡』にて嘆いてをられたが、なんとか保存する方法はないものかと思った。*4

 

 

 折田徳道氏の手紙

 「ユーホネン」と記された文献は、昭和16年の『國歌君が代の由來』である。では、折田氏の名簿も、昭和16年頃に作られたのかと言ふと、實はそうではない。『國歌君が代の由來』は、小山氏が長年研究してきた成果をまとめ上げた研究書で、折田氏作成の名簿も、かなり以前に入手してゐたのであった。同書には、折田氏の名簿が手紙と共に記載されてゐる。それを讀むと、この手紙及び名簿は、大正2年の1月18日に書かれ、小山氏に送ったものであることが判った。從って、この手紙及び名簿は大正2年の資料であり、深石氏が主張する、森山樂手の献燈が建てられたと考へられる明治3年よりも、ずっと新しい資料だといふことになる(小山氏が改竄などをしてゐなければ)。*5 

 『國歌君が代の由來』によれば、折田氏は明治4年に樂手として入隊、明治18年に除隊してゐる。小山氏が名簿を依頼した大正2年には、神戸商業高等學校に勤務してゐた。*6 そのやうな次第で、折田氏の記したとされる「ユーホネン」が、明治3年、又は折田氏が入隊の明治4年當時の呼稱であったかどうかは不明である。他の資料と比較検討する必要があらう。

 勿論、大正2年の資料とは言っても、明治の初めに軍樂手として生きた折田氏の筆による資料であるから、貴重な資料であることに變りはないことを付け加へておく。

 

 折田徳道氏の表記(發音)

 では、折田氏の「ユーホネン」といふ表記をどのやうに考へたらよいのか。

 まづ、他の樂器の表記を見ると、單語のスペルではなく、耳で聞いた發音を基にした表記であることが傳はってくる。しかも、かなり早口(一言)で話されて覺えたのではないか、といふ感じがする。以下の事例の( )内は、折田氏の表記から筆者が推測する樂器である。

  クラネト(クラリネット Clarinet) − 「リ」省略
  コーネト(コルネット Cornet) − 「ル」省略
  ツロボン(トロンボーン Trombone) − 「ン」省略

折田氏の表記は、現代の平べったい表記よりも、むしろ活き活きとした英語の響きがこもってゐるやうに思ふ。

 では、「ユーホネン」はどうなのか。「Euphonium」は「pho」にアクセントが來る。軍樂隊の最初の教師はイギリス人、ジョン・ウィリアム・フェントンだから、當然そのやうなアクセントをしたものと思はれる。さて、アクセントの後の「nium」の部分は、「ネン」と聞こえるものだらうか。聞かうと思へば、聞こえそうな感じがするが、いざ表記しようとすると、「ネン」と書くのは躊躇はれるやうに思ふ。むしろ「ユーホニア」「ユーホニン」「ユーホニオ」とかの方が、より發音に近く、他の例とも符合するのではないだらうか。*7

 折田氏の名簿には、ツロンペット(トランペット Trumpet)といふ表記があるが、ユーホネンの場合と同じく、母音が變化してゐる(「ア」が「オ」)。これは、無論日本では使はれない發音を表記した結果に違ひあるまい。だからと言って何の母音にしてもいいわけではなく、例へば「ユーホネン」のやうに「エ」にしてしまったらどうなるか。「ツレンペッチ」となってしまふ。これも聞こえなくはないだらうが、表記するには躊躇はれるだらう。

 

 折田徳道氏の表記(文字)

 『國歌君が代の由來』は活字であり、折田氏の手紙や名簿も直筆の冩しではない。折田氏の直筆のコピーが同書冒頭にあるが、崩字が多く、無學な私には大變讀みづらい(下記畫像參照)*8 編集も判讀に苦勞したやうで、名簿だけでも3ヶ所もの誤植が見受けられることが、中村氏の前掲書で指摘されてゐる。*9

 これは想像の域を出ないのだが、折田氏の縦書きの「ユーホニオン」の「ニ」「オ」が綴られ、編集者には「ネ」に見え、「ユーホネン」と活字を組んたのではあるまいか。是非直筆の名簿を拜見したいものである。

 

折田徳道氏の手紙
『國歌君が代の由來』P.79
の元の文章。
ユーホネンとユーホニオン、
縦書きにするとこのやうな
具合になる。

 

 「ユーホネン」の可能性

 それでは、折田氏の「ユーホネン」は、全く信憑性がないのかと言ふと、さうでもない。前述の通り、折田氏がパートを記載した名簿を作成したのが大正2年である。最初の軍楽隊教師はイギリス人であったが、その後各國の外國人教師が任に就く。折田氏は明治4年から18年まで樂手として任に當ってゐた。氏の在任中、明治12年には、ドイツ人、フランツ・エッケルトが教師として就任してゐる。エッケルトはユーフォニアムをドイツ語で「Euphonion」(オイフォニオン)と言った筈である。これが複數になれば「Euphonien」(オイフォニェン)となり、「ユーホネン」に近くなる。折田氏がツロンペットとツロンペッチの両方を表記してゐるが、これも英語の「Trumpet」とドイツ語の「Trompete」の混同のように取れなくはない。

 依然「ユーホネン」の呼稱には、謎が多い。他に『國歌君が代の由來』もしくは折田氏の手紙と名簿に基づかずに「ユーホネン」と表記した資料、また明治初期に書かれた文献にユーフォニアムに關する表記が複數見つかれば、比較研究が可能とならう。今後の資料發見が必要と思はれた。

 

 追記

 楽水社編『海軍軍楽隊』に、初代軍樂長「中村祐庸遺録」の直筆コピーが、資料として部分掲載されてゐる。そこには、明治2年の傳習生に「ユーホーニオン」の記載がある。初代の軍樂長が記した資料であるから、信憑性も高いと思はれるが、この文書がいつ書かれた物であるかは『海軍軍楽隊』には記載されてゐない。是非、原文を拜したいと思ってゐる。

 また昭和の資料になるが、同書に掲載の「海軍々樂隊沿革史 其ノ一」(海軍の割印と共に、昭和12年横濱納とある)の直筆コピーには、明治2年の傳習員氏名の欄に「ユーフォニオン」、明治4年の編成表には「ユーフォニオン」(2パートあり、他に「B♭テノルホーン」も2パート)、さらに明治19年の編成表には「バリトン」(1パートで、他に「B♭テノルホルン」が2パート)とある。編成表を一覧にして、軍樂隊史を繙いていくと、何か見えてくるかも知れない。

 


*1 當サイト以外に、深石氏自身のサイトの「徒然奏」にも氏の見解がある。

*2 中村理平『洋楽導入者の軌跡』P.80(刀水書房 平成12年初版2冊)

*3 小山作之助『國歌君が代の由來』P.84(小山眞津 昭和16年初版)

*4 『洋楽導入者の軌跡』P.81, 82

*5 『國歌君が代の由來』P.86

*6 『國歌君が代の由來』P.88, 89

*7 明治からの海軍の資料をまとめた、楽水社編『海軍軍楽隊』(国書刊行会 昭和59年)を見ると、やはり表記のばらつきがあるが、「ユーホネン」は皆無。「ユーホーニオン」「ユーフォニオン」が見受けられる。

*8 楽水社編『海軍軍楽隊』P.240 にも、折田氏の直筆コピー(『國歌君が代の由來』とは別の文書)が掲載されてゐる。カタカナの「ニ」が極端に小さく書かれてゐるのが見受けられる。

*9 『洋楽導入者の軌跡』P.81 誤植はいづれも人名なので、中村氏は他の資料と合はせて比較した結果、『國歌君が代の由來』の方を誤植と判斷したのであらう。


 平成19年2月6日

Hidekazu Okayama
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