第10回定期演奏會

 旅行に先立ち、「澁谷區青少年吹奏樂團 第10回定期演奏會」が、東京藝術大學教授(現在は御退官されてゐる)である大石清氏の指揮によつて、澁谷公會堂にて行はれた。この日は朝からかなり強い雨が降つてゐたので、果して何人のお客さんが來るものかと心配であつたが、八割ぐらゐの席は埋まつてゐるぞと聞いて、團員、關係者共に先づは安心した。

 開演10分前の13時20分頃、ステージに上がり、各々の椅子に座る。用意された譜面臺に第一部の樂譜を置くと、何とも言へない氣分になつてきた。緊張と言つてしまふには余りにも簡單過ぎるのでは、と思つてしまふやうな心境である。毎年の事であるが、開演に先立つての當樂團育成會會長、三界實義先生のご挨拶と、澁谷區教育委員會からの御祝辭は、大變長く感じられ、緞帳の裏で行儀よく並んで座つてゐる小生らの顏は益々強張つて來る。小生は何度か現實逃避を試み、阿呆な顏をして人を笑はせてゐたが、そんな事で中々治まるものではない。

 「大變長らく御待たせ致しました、只今より、澁谷區青少年吹奏樂團、第10回定期演奏會を開演させて戴きます。」と恩田真由美先輩のアナウンスが場内に響き渡ると、ガタン、といふ音がして、緞帳はゆつくりと上がり始める。やうやく客席全體が見えるやうになると、會場全體の空氣が張り詰めたかのやうな感じを受けた。客の方も演奏者と似たやうな心境になつてゐるのかもしれない。

 大石先生がにつこりと笑ひ舞臺の袖から現はれ、指揮臺の前で一礼されると、控へ目であつた拍手は、ひときは大きな拍手に變はる。小生らがほつとする間もなく、先生は、ひよいと指揮臺に上がり、兩手でステージを包み込むやうな恰好をする。そして、さあ始めるぞ、といふ表情をちらりと見せて、勢ひよくタクトを降り下ろした。「あの時、あの1曲目の『アルヴァマー序曲』の最初の音が出た時、その勢ひに僕はぞつとしたよ、忘れられないよ」と後日先生が御話して下さつたやうに『アルヴァマー序曲』の快調なスタートは、演奏してゐてもとても氣持ちが良く、曲が終はると直ぐ、割れんばかりの拍手を戴く。

 この調子で2曲目、3曲目、といふ具合に進めばよかつたのだが、今回は特別に演奏する曲數が多く、後半はかなり團員の疲れが目立つた演奏となる。小生も最後のアンコールでは音が出なくなり、かなり悔しい思ひをした。

 しかし、演奏會が終了し、はるばる聽きに來てくれた友達や後輩から、笑顏と、兩手に抱へ切れない程の花束を戴いた時は、もう悔しさなど何處かへ消えてしまつて、ただ、ああ、よかつた、といふ氣持ちで一杯になつたのであつた。

 ステージで記念寫眞を撮り、後片づけを終へて外に出てみると、それまでの雨は雪に變はつてゐた。これで明日飛行機が飛ばなかつたらどうなるか、などと人事みたいに冗談をとばしながら、翌日の演奏旅行で使ふ樂器のラッピングをする。ラッピングに使つたのは、煎餅やクッキー等の菓子箱に入つてゐて、よくプチプチつぶして遊ぶ、空氣入りビニルの巨大な物である。つい幼心につぶして遊んでゐたら、この樂團の事務局長、言はばボスである松崎フミ子先生のメガネを光らせるハメになつてしまひ、皆からひんしゆくをかつてしまつた。

 松崎先生はとても嚴しい方であるから、小生も現役時代には怒られた事もあつたが、小生が卒團してゐたこの時もその強さに變はりはなく、大變元氣に仕事を續けてをられてゐた。その松崎先生も今期で御退職される事になつてゐるので、どうやら小生らは最後まで先生に心配を掛けさせてしまふ事になりさうであつた。又、來期から松崎先生に代はつてその仕事を受け持たれるといふ大變貫祿のある南保瑛先生も、かなり嚴しい先生で、かつてその先生が旅行に御同行されると聞いた折に小生は、樂しくなりさうだ、と震へた覺えがある。さうは言ふものの、小生は別に嫌つてゐる訳ではない。ただ、うかつには近寄り難いものがあるといふのは確かであつた。お二人とも先生らしい先生といふことである。

 ラッピングの終はつた樂器を一箇所にまとめ、仕事が一段落すると、この日の演奏會の締括りと、明日からの演奏旅行についてのミーティングとが行はれた。これは毎年、定期演奏會を以て卒團して行く高校3年生を華やかに送出す、とても大事なミーティングなのであるが、今年は旅行の準備に時間をとられた爲、卒團生となる者を充分に歡送する事が出來なかつた。小生の頭の中でも明日からの旅行の事が渦巻いてゐて、とにかく早く家へ歸りたいといふ氣持ちが先立つてゐた。彼らには大變惡い事をしてしまつた。この時はそれでも少しは可哀想に感じたのか、解散後、有志で行ふ打上げの時に彼らを樂しませてやらうと思ひ、君らは打上げには來るかと聽いたら、來ると言ふ。ぢやあもう少し我慢してもらはう、といふ事になつたのである。

 かうして松崎、南保兩先生の非常に長く感じられた話が終り、團長である大久保憲君(高2 トロムボーン擔當)のまとまらぬ話を聞かされ、事故も起こさずに演奏會は終了した。

 雪の降る夜、くたくたになつて花束を抱へ、妹(中3 サクソフォーン擔當)と歸宅した。