さらば日本

<搭乘>

 やうやくと搭乘のゲートが開き、皆、飛行機に乘込む爲の長い渡廊下をゾロゾロと歩き出した。愈々出發だぞ、と何故か少し緊張しながら歩いて行くと、飛行機のドアーの所に外人のスチュワーデスさんが立つてゐて、「 Good evening 」と言ふ。まるで、もう外國へ來てしまつたかのやうである。

 搭乘する飛行機は、ルフトハンザ航空の701便、ボーイング747型、「ジャンボ」の愛称でよく知られてゐる大型旅客機である。

 機内に入ると、何ヶ國語かの新聞が山のやうに積んであるので、手に取らうとしてみると、日本語新聞はもうない。どうやら既に全部持つて行かれたらしい。後ろから續々と人が乘つて來てしまふから、どれでもいいやと、アルファベットの書いてあるやつを手當たり次第に二つばかり持つて行つた。手に取つたのは英字新聞か何かだらうと思つてゐて、後でよく見てみると、ドイツ語だつた。アルファベットが並んでゐるといふと、直ぐに英語だと思ひ附いてしまふのは小生だけではないやうだが、これにはいささか驚いた。荒井先輩の手に取った物を見ると、あちらさんのはフランス語だった。

 小生の座つた席は運良く窓側で、隣は期せずして荒井先輩、その隣は今回卒團した杉森三輪子女史(パーカッション擔當)であつた。二人共小生以上の變はり者で名が通つてゐる。特に荒井先輩の場合は中學時代からの先輩で、良き先輩であるかと思へば、時には人をいらつかせるやうな人でもあり、それはともかく小生にとつては、瓜生君と並んで、最も縁の深い人物である事は確かである。かうして今回も「鉢山中學校卒・三羽烏(荒井先輩、瓜生君、小生)」が揃つて旅行に行くといふ事等は、縁といふものの持つ不思議な力を改めて感じさせられてしまふ。

<非常事態の説明>

 さて、我々が落着く間もなく、車輪がゴロゴロと動出すと、悲鳴を上げた愚かな者もゐたが、スチュワーデスさん達は、ビデオに合はせて、當然であるが落着いた顏で、又時々笑みを浮かべながら、マニュアル通りであらう非常事態の際の説明をしてゐた。しかし、かういふ大事な説明を笑ひながらするとは、一體どういふ教育をされて來たのだらう、こんな事がサービスなのであらうか、等と思ひはしたが、よく考へてみればそんなに簡單な事ではないやうである。いくら重要な説明とはいへ、あんまり深刻な面持ちでやられてはたまらない。離陸してもゐない飛行機が、今にも落っこちさうな氣になってしまふ。大丈夫ですよ、安心して下さい、さういふ氣持ちを込めて微笑んでゐるのかも知れない。

 この間に、前方のスクリーンに流れ續けてゐたビデオの中で「酸素吸入マスクの取扱方」に關する物が、一番滑稽に映つた。事故等により、飛行機が急激に高度を變へる際、機内の酸素が不足する事があるらしく、その爲に乘客全員分の「酸素吸入マスク」が頭上に設けられてゐて、いざといふ時になると一斉に姿を現すのださうだ。飛行機が急激に高度變化するやうな事態に陷つた時、乘客はパニック状態にも成り兼ねない。そこに突如「酸素吸入マスク」が天井から眼の前にドサッと落ちてくるといふのは、想像してみると、かなり恐ろしい事ではないか。荒井先輩と二人で、余計に怖くなるだけぢやないのか、と一笑に附してしまつた。

 こんな具合であつたから、説明を聽いてゐた、といふより、茶化してゐた、といふのがより眞實の所であらう。このやうな、あつてもなくても、ここにゐる者の大半には、およそ關係ないやうであつた説明が終はると、スチュワーデスさんは忙しさうに、客席からは想像もつかないくらゐ質素な、専用の席に着いた。

<離陸>

 飛行機はゆつくり、大きく滑走路を廻ると、突然、ゴォと凄まじい音を出しスピードを上げ、そのまま一直線に走り、間もなく我々を地上から引離した。誰の聲も聞こえず、耳にはエンジンの爆音しか入らず、身體はピッタリとシートにくつついた。

 それまでの緊張がやうやく緩むと、突然拍手が巻起こつた。松崎、南保兩先生までも、やんやと手を叩いてゐる。皆で、飛んだ飛んだなどと言つてゐる。