機内でのくつろぎ

<英語を使ふ>

 禁煙のサインが消え、やがてベルトのサインも消えると、急に賑やかになる。生まれて初めて飛行機に乘つたといふ者も、少し落着いたやうで、もう皆とワイワイやつてゐる。直ぐスチュワーデスさん達は慌ただしく動き始め、乘客1人1人に菓子を配つてゐるのだが、その時貰つた菓子の袋がいい。掌ぐらゐの銀色の袋に、青いのれんが書いてあり、そこへ「あられ」と白抜きの變な恰好の平假名が印刷してあつた。どうやら西ドイツで生産されたもののやうだ。

 續いては、ワゴンに飲物を乘せてやつて來た。各自で好きな飲物を注文すればよいのであるが、なにしろスチュワーデスさんは外人ばかりなので、英語を使つて話さなければならない。仕方がないから「 Coke please(コーラをお願ひします)」と蚊の鳴くやうな聲で言つたのだが、通じない。どこか文法でも間違つてゐたかと、少々うろたへてしまつたが、荒井先輩に、「大丈夫だよね」と聽いたら、「大丈夫ぢやないの」と言ふので、もう一度、今度は少し大きめの聲で「 Coke! 」と言つたら、直ぐに通じた。時々日本語も英語も言葉であるといふ事を忘れてしまつてゐた。

<食事の樂しみ>

 機内に大分慣れて來ると、ただ座つてゐる事が段々退屈に感ずるやうになつて來た。誰かと席を交換して、別の人と話をしたいのに、まだ松崎、南保兩先生の眼も嚴しいから、さうもいかない。成田からアンカレッジを經由してハンブルグ、そしてフランクフルトへと向かふのだが、まづアンカレッジまで6時間半、そこからフランクフルトまで9時間40分乘つてゐるのである。離陸してまだ1時間ぐらゐだから、退屈するのは早過ぎる。しかし、退屈になつてしまつたのだから仕樣がない。ぼんやりと外を眺めてゐたが、下界は厚い雲で覆はれてゐるやうだが、何しろ夜なので殆ど何にも見えない。だから、ここに書く事が出來るのも、食べ物の事ぐらゐしかない。

 丁度小生が空腹を感じ始めた時、機内食が運ばれて來た。噂に聽いてゐた機内食とは、一體どんなものかと、密かに樂しみにしてゐたのであるが、思つてゐたよりもボリュウムがあり、大學の學食より美味いやなどと、まだその時はそんな風に言へた。

 食後暫くすると、また菓子が配られる。今度は酒を呑んでみよう、といふ事で、荒井先輩とウヰスキイを注文した。機内で酒は無料で呑む事が出來るし、又、上空で酒を呑むと、氣圧の關係で、酔ひの回るのが早い、と聽いてゐたので、さて、どんなものかと試してもみたかつたのである。早速スチュワーデスさんに「 Whiskey please! 」と言つたが、通じない。變だなと思ひ、何度も「 Whiskey! Whiskey! 」と言つたが、全く通じない。どうにもならないので、荒井先輩が、アメリカ人が「 Oh! No! 」とか言ひながらやる、肘を曲げ掌を上に向けるポオズをやつてみた。すると、効果てきめん、その外人スチュワーデスさんは奥に引込んでしまひ、代はりに日本人のスチュワーデスさんがやつて來る。これは助かつたとばかりにウヰスキイを注文すると、「はい、かしこまりました」と言つた後、「未成年ぢやないですよね」と附け加へ、ニツコリ笑つた。實は小生は未成年だつたが、まあ數へでは20歳だから、と勝手な理屈で割切つてゐた。さて、日本人のスチュワーデスさんは、先程の外人スチュワーデスさんに今の注文を英語で話してゐる。何だか上手く聞き取れなかつたが、ウヰスキイといふ言葉を使はず、スコッチと言つてゐる。どうやら、ウヰスキイと言ふよりスコッチと言つた方が通じ易いやうである。

 それにしてもあのポオズは外國だと相當効果があるものなんだなあと、荒井先輩と一緒にしみじみ感じながら、めでたく運ばれて來たスコッチとやらを、先程配られた菓子のカキピイ(柿の種とピイナッツ)を肴に味はふ。酔ひは本當にあつといふ間に回り、小生蛸のやうに紅く染まつてしまつた次第である。

<「ウノ」開始>

 機内の電灯が消されてしまひ、もう雑誌も讀めなくなつてしまふ。寝てしまふ者が出始めたが、小生は全然眠くないので、元氣のありさうな輩のゐる方へ席を移つた。そこで荒井先輩と、後輩のうら若き乙女子(?)らと五人で、これから連日連夜續く「ウノ」を始める事にした。ところが、このゲームは輪にならないと出來ない。飛行機の座席は新幹線のやうに椅子が回轉する訳ではないから、結局は荒井先輩と小生が前の席の椅子に後向きに正座して、ゲームをするハメになつてしまつた。これでは、後方に座つてゐる松崎、南保兩先生に、顏がまる見えぢやないか。全くあの二人は卒團生でありながら…、と言はれるかも知れないが、女の子と遊べるチャンスを見逃す手はない、靜かにやつてゐれば構はないだらうと思つてゐた。

 戰ひは白熱してしまひ、危ふく大聲を上げさうになつたりもしたが、名指しで怒られるといふ事態にはならなかつた。ところが、ゲームが一區切りついて、何の氣なしに顏を上げてみると、遙か後方の薄暗い席から、松崎先生がこちらをじつと見てゐる。暗くて表情は全然見えないのだが、眼鏡の淵だけが、闇の中でキラリキラリと光つてゐるのである。本當に怖かつた。それから、小生がおとなしくなつたといふのは、想像がつく事であらう。

 ところで御承知のとほり、海外旅行に時差はつきもので、今回のこの機の中では、二度朝を迎へる事になつたが、果たして何處で一日を區切ればよいのか、よく判らないので、とりあへず、この邊までを第1日目とさせて戴く。