ホテル出發まで

<幽霊騒ぎ>

 山崎君がモーニング・コールを掛けておいてくれたので、本當に助かつた。昨晩の電話の後、眼を閉ぢたと思つたら直ぐコールが鳴り響いた。旅の疲れか小生はすつかり熟睡してゐたのである。8時にはレストランへ集合する事になつてゐたから、起きたのは7時40分ぐらゐだつたか。身體の疲れはまだとれてはゐないやうで、頭の方もなんだかぼんやりとしてゐる。外はまだ薄暗い。今日も天氣は曇りのやうだ。

 セーターに着替へて、エレベーターで一階まで降りる。2階の皆はエレベーターの前でひしめき合つてゐるであらうが、3階は小生と山崎君の二人だけである。ゆうゆうとエレベーターに乘り、2階からウジャウジャと乘込んで來る輩共に、やあ諸君お早う、と余裕のある挨拶も投げ掛ける事が出來る。3階は並ばずに乘れるからいいですね、と言ふ者もゐたが、さう考へてみると3階も滿更惡い所ではないやうな氣もして來る。

 2階から安江女史らが乘つて來たので、昨日の夜電話を掛けてきただらうと言ふと、「えぇっ? あたしぃ? してませんよ」と眼を丸くして言ふ。からかはれてゐるのかと思つたが、本當に電話などしてゐないと言ふ。山崎君も、電話なんかありましたか、なんて言つてゐる。安江女史の他に、うちの部屋へ遊びに來るやうな女の子はゐないだらうし、それぢやあ一體何者が・・・ まさか・・・ おいおい勘弁してくれ、まさか外國のお化けが日本語で喋る譯がないだらう。さうは言ふものの、あの部屋ならお出ましになつてもをかしくはない。もしかすると・・・ と一人エレベーターの中で恐怖に浸つてゐた。側にゐた八尋君まで、本當に出ちやつたんですか先輩、と眼を丸くしてゐる。

 恐ろしいといふか、びつくりしたといふか、何とも言へない氣分でレストランへ向かふと、小生と同學年だつた石川佳子女史(フルート擔當)が、小生のその話を八尋君から聽いて、笑ひをこらへながらこつちを伺つてゐる。人が眞剣になつてゐるのに、笑ふとは失敬なと思つてゐると、小生に近寄ってきて、「嫌ねぇ、昨日電話したのは私よ」と言ひ出しをつた。全く人騒がせな奴だ。一日がまだ始まつたばかりだといふのに、これで一氣に力が抜けてしまつた。遊びに來てくれたといふのはあり難かつたのだが・・・

<よりどりみどりの豪勢な朝食>

 ボーイさんがやって來て、お飲み物は、と尋ねる。昨晩のこの席で女共がワインを飲んでゐた事を思ひ出し、荒井先輩と二人、朝つぱらからビールを注文してしまふ。ドイツのビールは上手い、と聞いてゐたから、さて一體どんなものが出て來るのか、樂しみであつた。暫くして運ばれて來たのは、小さなラベル以外には別段變はつた所のない、見慣れた茶色の小瓶であった。しかしながら中身は、飲んでみてびつくり、納豆の味がする。朝からビールといふ洒落た氣分でゐたのに、納豆の味がしたんぢや、なんだい日本の朝食とちつとも變はりやしないぢやないか。まいつたなあ、と思ひながら、鼻先にはオツな匂ひがプンプンしてゐる。

 ホテルの朝食はバイキングになつてゐて、各自好きなものを皿に盛つて、好きなだけ食べる。流石にドイツの朝食といふだけあつて、ハムとチーズ、パンの種類は大變豊富で、さてどれを食べようものか、迷つてしまふくらゐである。歸朝後、酒を呑みに行つた折、ハムの盛合せを注文したが、値段の高さと、種類の少なさに驚いてしまつた。こんなものドイツぢや、よりどりみどり好きなだけ喰へたのだがなあ、などとぼやく羽目になるのである。

 美味いものも澤山あつたが、さういへば嫌ひになつた食べ物もあつた。忘れもしない、カビチーズと、胡椒の實のまぶしてあるパンだ。

 カビチーズは以前からどんな味がするのかと興味を持つてゐた。チーズの白とカビの緑がなんとも綺麗である。しかし、實際に一口食べてみて、吐出しさうになつた。味は形容し難いが、とにかくこれは人の喰ふものぢやない、と思つたぐらゐ不味かつた。またもや添乘員さんに、慣れると病付きになるんですがねえ、と言はれるが、冗談ぢやないこんなものに慣れてたまるか。

 胡椒のパンも、その見掛けは大變よかつたのだ。パンの周りに胡椒の實が付いてゐて、實に香ばしさうであつたから、きつと美味しいのだらうと思つて皿にのせて來たのだが、食べてみたらくせが強すぎて不味い事不味い事。二度と食べたくはない。勿論各自の好みもあるので、不味いから食べるのおよしなさい、などと勸めるつもりはない。美味しいと思ふ人がゐるから、かうして食卓に上るのであらう。けれども小生はもう二度と御免である。