ケルンでの自由行動

<ホテルへ戻る>

 この後、ホテルへ戻つて晝食をとり、夕方のリハーサルまでは自由行動である。文化會館からはバスで歸る。幸ひ道路の澁滞もホテルの付近で少し發生しただけで、豫想してゐたよりは大分早くホテルに到着した。

 ホテルのレストランで晝食をとりながら、さて何處へ行かうものかとぼつぼつ考へてゐたから、メニューが何であつたか、すつかり忘れてしまつた。晝食の間に、今回の旅行中、演奏に關する手續等を全て執り行つて頂く、稲川栄一氏を紹介された。氏は大石先生のお弟子さんで、ケルンのオーケストラでテューバを擔當されてゐるさうである。テューバ奏者らしい體格の良い方であつた。ちなみに稲川さんは現在は歸朝されてゐて、日本の音樂大學で講師をされてゐる。

 食事を終へて部屋に戻り、八尋君に電話を掛ける。一緒に外へ行くかと聽くと、行きませう、といふ返事なので、ロビーで待合はせをする。とりあへずは飲水を買はねばならないし、部屋で食べる菓子も買つておかう、といふ事で、ケルン中央驛( Hauptbahnhof ) へ向かふ。

 信號を1つ渡り、道沿ひに歩いて、ガードを潜ると中央驛へ出る。八尋君と山崎君、そして小生の3人で、添乘員さんは勿論ゐない訳だから、緊張のしつぱなしであつたが、何とか無事に驛へ着く。

<飲水調達>

 まづ、飲水を買ひに、驛構内の小さな食料品店に入る。丁度日本の酒屋さんのやうな感じだ。冷蔵庫を覗くと、ミネラルウォーターらしきボトルが幾つかある。そいつを手當たり次第、4、5本取出し、レジへ持つて行く。炭酸が入つてゐるといけないので、店員さんに一々尋ねなければならないのだが、生憎ドイツ語は「 Ich liebe dich (愛してる)」以外は全く全く知らない。無論、滅多矢鱈に使へる言葉ではない。炭酸は多分「 gas 」でいいだらうと思ひ、栗色の髪をした女性店員の表情を伺ひながら、1本1本指で示して、「 Without gas ?(炭酸は入つてませんか)」と尋ねる。店員が「 Without(入つてゐませんよ)」と言つて、2本ばかり指し示すので、適當にそのうちの1本を選び、他のものを冷蔵庫へ戻す。一本ぢや足らぬかも知れない、戻すついでに同じやつをもう1本持つて來る。その他スナック菓子を2つ3つ持つて來たが、これは日本で賣つてゐるものと同じやうなものだつた。それらをレジの前に置き、さて勘定といふ時になつて、突然思ひ出した。現金は日本圓と米ドルしか持つてゐないのだ。慌てて、八尋君らにさう言ふと、二人共既に西獨マルクに兩替してあるといふ。彼らの御陰で犯罪者にならずにすむ。荷物が重いので、一旦ホテルに戻つてから、改めて出直すことにする。

<××本事件>

 山崎君は他の友達と出掛けると言ふので、小生と八尋君とで再び手ぶらになつて驛へ行つた。

 驛の構内に入つたところでばつたりと中島君に會ふ。彼が一人でウロウロしてゐたから、何處へ行くのかと聞いたら、どうしても買ひたい本があるので、本屋を探してゐる、と言ふ。こんな所で買ふ本なんかあるのかとは思ひながら、一人ぢや危ないから一緒に行かう、と言ふと、一緒について來た。驛と言つても中央驛と言ふだけあつて、構内は大分廣く、實に樣々な店が立竝んでゐる。輕食スナックは勿論、食料品、醫療品、銀行まであるが、東京驛のやうな地下商店街ではなく、全て平地にある。

 本屋を探してゐると、あつたあつた、大きな本屋が。ここでいいかと中島君に聞くと、充分ですと言ふので3人で中に入る。小生が、日本でも販賣されてゐる女性雑誌 『 COSMOPORITAN 』を見つけて、嬉しいやうな、一體それがどうしたといふやうな、妙な氣分に浸つてゐると、中島君が、お目當にしてゐたとおぼしき本を開いてじつと見てゐる。一體何の本だらうと思ひ、後ろからそつと覗くと、なんとまあ、これはヌード雑誌だつた。しかもノーカット、つまり日本ぢやおほつぴらには見られない處がまる見えである。ははあ、それでこいつはかくも熱心に探してゐたのか。八尋君も、仕樣のない奴だなあ、といふ顏つきで後ろから見てゐる。

 しばらく彼とは別の所で雑誌などを眺めてゐると、誰かが小生の背中を輕く叩いた。振向くと、ついさつきまで嬉しさうな顏をしてゐた中島君が、今度は何とも悲しさうな顏をして立つてゐる。聞けば、彼が例のヌード雑誌を見てゐたら、彼よりもずつと體格のよい女性の店員さんがずしずしと近寄つて來てしまひ、ドイツ語でさんざん怒られたあげく、膽心の雑誌を取上げられてしまつたのだと言ふ。本當にしやうのない奴だ、と大笑ひさせてもらつた。(なほ、中島君はドイツでは入手に失敗するも、フランスにて見事に手に入れ、日本に持込んだとの報告を受けてゐる。)

<『アルプスの少女ハイジ』>

 中島君はホテルに戻るさうなので、再び小生と八尋君だけになつた。小生が米ドルをマルクに兩替しなければならないので、まづは銀行へ行く。八尋君がもう兩替を濟ませてゐたので、どうすれば兩替は出來るのかを聞いてみると、何簡單です、窓口でお金を出して、「 Please, Change, Mark 」て言へばいいんです、と言ふ。窓口へ行つて彼の言ふやうにやつてみると、本當に兩替してくれた。當たり前と言へば全く當たり前の話なのだが、なかなか緊張するものである。

 手持ちのいくらかを兩替し終へてから、ぶらぶらと構内の突當たり近くまで歩いてゐると、店先にワゴンを出してゐる藥屋があつた。はて一體何を賣つてゐるのかとワゴンを覗き込むと、御當地の民謡やヒットソングらしきものから、恐らくテレビで放送してゐるのであらうアニメの主題歌らしきカセットテープを賣つてゐる。何かお土産になるやうなものはないだらうか、と眼を配らせるのだが、何せドイツ語が讀めない。手に取つてケースの寫眞やイラストをちらちら見てゐると、なんと懐かしい、『アルプスの少女ハイジ』のカセットがあるではないか。イラストは、小生が幼い頃テレビで見たハイジを少々情け無い顏にした感じではあつたが、山羊のユキちやんといい、ハイジの恰好といい、正くあのハイジであつた。あんまり興奮させられたので、これをお土産にしよう、とつい買つてしまつた。後でホテルに戻つてそのテープを聽いてみたが、主題歌は小生の知つてゐるのとは全然違つてゐて、勿論、物語もドイツ語で語られてをり、何となく損をしたやうな氣分になつた。(ちなみにこのカセットは、數年後、ドイツ語を勉強する際に、よく聽いてゐた。)

<大聖堂とケルンの人々>

 中央驛からドームの方へ出る。ドームの前は石畳の廣場になつてゐて、大聖堂で禮拜を濟ませた人や、これからする人が行き來してゐる。また、この地方はもう春の休暇に入つたらしく、のんびり石段に腰を下ろし、くつろいでゐる人々もあちこちに見受けられる。地元の人々にとつてここは神聖な場であると同時に、憩ひの場でもあるやうだ。大きなドームを見上げ、てつぺんまでを覆ふ黒ずんだ細かい飾りを眺めてみる。東京タワーに行つて、ああでかいな、といふ時の感覺とは少し違ふ。ケルンの人々は、きつとこの大聖堂を慕ひ續け、大切にしてゐるのではないかと思ふ。

 折角來たのだから、大聖堂の中をゆつくり見學すればよかつたのだが、時間もあまりない。歸國後に見たガイドブックによれば、この大聖堂には大きなパイプオルガンの他、美しいステンドグラス、數々の祭壇畫や彫刻があるのだといふ。今考へれば本當に惜しい事をしたと思ふが、それよりもこの時は、前日バスでホテルへ來る際にホテルの近くで見つけた樂器屋へ行きたいと思つてゐたのである。八尋君に聞くと、彼も行つてみたいやうであつた。果てさて、その樂器屋はどの邊にあつたのか、二人でああだのかうだのと記憶を辿りながら、ドームを後にした。