樂器屋探訪

<街中にて>

 ドームのすぐ横には美術館が竝んでゐる。その脇の階段を降りて、一旦ホテルの前へ戻る。さて何方へ行けばよいか。バスでこつちから來たのだからこの道でいいでせう、と八尋君が言ふ。殆ど道順を思ひ出す事の出來ぬ小生は、彼に從つた。細い一方通行の道の兩脇には、三角屋根の3、4階建の家が立竝んでゐる。流石に街中になると、如何にもドイツと言つた感じの建物が眼につくやうになる。大體どの家も一階では店舗を構へてゐるので、ここはさしづめ日本の商店街といつたところか。ホテルに近いせゐか、道すがら團員とよく顏を合はす。「先輩! 向かうに何屋がありましたよ」などと、實に元氣に教へてくれる。彼らも自由時間を存分に樂しんでゐるやうだ。

 八尋君と、ああこれは洋服屋だとか何だとか言ひつつ、5分程歩いて行くと、あつた、あつた、お目當ての樂器屋さんが。角地にある店のウィンドウから、珍しいラッパが何本も顏を出してゐる。

<ドイツ式バリトンとユーフォニアム>

 小生の吹いてゐるユーフォニアムといふ樂器は、フランスで發展し、イギリスで現在の形に整つた樂器とされてゐる。處がドイツの吹奏樂では、ユーフォニアムと同じ役割を、テノールホルンバリトンといふ、別の樂器で果たしてゐるのである。このユーフォニアムとテノールホルン、バリトンは、音域(出す事の出來る低い音から高い音までの範圍)がほぼ同じなのだが、樂器本體の形と音色が随分と違ふ。ユーフォニアムの形はどちらかと言へば四角い感じで、柔らかく深い音を出すのに對して、テノールホルンやバリトンは卵型で、華やかな明るい音を出す。また、ユーフォニアムはピストンバルブを操作して音を變へるのだが、テノールホルンやバリトンの方はロータリーバルブで音を變へる。ユーフォニアムとテノールホルン、バリトンに限らず、フランス式の吹奏樂はピストン系金管樂器を使用し、ドイツ式はロータリー系の樂器を使用するといふ傳統がある。

 海を越えたイギリス、アメリカ、日本ではフランス式の吹奏樂編成を基に、編成を縮小するなどして、それぞれ獨自に發展させて行つた。その爲、これらの國では、吹奏樂でドイツ式のテノールホルンやバリトンを使ふことはなく、また樂器自體の製造もされてゐない。日本では、余程氣の利いた業者が輸入販賣してゐる程度であつて、普段はまづお目にかかれない代物である。少し專門的な話になつたが、ともかく、日本ではなかなか眼にすることがないやうな珍しい樂器が、このドイツではごく當たり前に竝んでゐるのである。ああ、ここがドイツなのだ!

(ややこしい事に、日本やイギリスやアメリカにもバリトンバリトンホーン、といふ樂器が存在するのであるが、これらはユーフォニアムの管を細くした樂器であり、ドイツ式のバリトンとは恰好も音色も違ふ樂器である。またもっと管の短いテナーホーンといふ樂器もあるのだから、さらにややこしい。)

<店内突入!>

 ワクワクしながら店の中へ入る。奥のレジに店員さんが二人ゐる。若い男の人と女の人だ。その店員さん達のゐるすぐ横邊りに中低音樂器が竝んでゐる。つかつかと店の奥まで入り込み、片言の英語を使つて、自分が日本から來た事や、吹奏樂團でユーフォニアムを吹いてゐる事等を、しどろもどろで店員さんに話してみた。幸ひ二人とも英語が話せるやうで、「ああ、それならこのバリトンを吹いてみるといい、あなたの使つてゐるユーフォニアムと殆ど同じですよ」と教へてくれた。小生が念の爲、「でもあたしや買へやしませんよ」と言ふと、「なになにそんな事氣にせずどうぞ」と、二人が身振り手振りを加へて言ふ。すつかり嬉しくなつた小生は、その本場物のバリトン(東ドイツのB&S社製)をじつくり吹かせて貰つたのである。思つてゐたよりもずつと吹き易く、密度の濃い、堅い音がしてゐると感じた。

<ああ、テノールホルン>

 どうもありがたう、と樂器を返して、その隣を見ると、外見はバリトンにそつくりだが、ロータリーの數が一つ少ないものがあつた。店員さんに聽くと、これがテノールホルン(東ドイツのB&S社製)であつた。テノールホルンは、バリトンとほぼ同じ音域だが、管が幾分か細く、ロータリーも3つ(バリトンは4つ)なので、高音をさらに明るい音で出せるのである。ドイツ式の吹奏樂では、テノールホルンとバリトンを曲の中で効果的に使ひ分けてゐるのださうだ。そのテノールホルンの値段を見て驚いた。880マルクと値札が付いてゐる。この時の換算レートで、1マルクが75圓前後だつたから、この樂器、日本圓で約6萬6千圓である。この値段ぢや日本製の一番安いユーフォニアムさへ買ふ事は出來ない。そのやうな値で、日本では目にする事さへむづかしいこの樂器を手に入れる事が出來るのである。6万6千圓といふ金額を算出した時、小生の心はグラリと、こいつと一緒に日本に歸りたい、さう思つたのであつた。しかし、今手元にはトラベラーズ・チェック(旅行用小切手)がない。それに、いくら安いとは言つても、やはり6万6千圓は大金だ。馬鹿な考へは止めて、さつさとホテルへ戻らう、さう自分に言ひ聽かせる。

 カタログを2、3枚貰ひ、店員さんにお禮を言つて店を出た。カタログに押してあるスタンプによると、あの店は『 MUSIKHAUS-TONGER 』といふ名だつたらしい。八尋君は、自分が今使つてゐるホルンと同じ日本製のものしか置いてなかつた、とボヤいてゐたが、小生はすつかり樂しませて貰つた。

 その後、もう時間がなくなつてしまつたで、ホテルへ戻る。途中何軒かのお店をちらちら覗いたが、冷やかしに終はつたので、特に書き記す事もないかと思ふ(樂器屋も一軒あった)。歸りも八尋君の指圖に從つた御陰で、ホテルまで無事に辿り着く事が出來た。

<さて、どうするよ!?>

 部屋に戻ると、あの樂器が欲しくてたまらなくなつた。

 日本では買へない樂器だ、もう二度とこんな機會はないかも知れぬ。しかし、大金だ。小遣ひやお土産代は大丈夫か。ベッドにあぐらをかいて、山崎君から借りた電卓を何度も彈く。持つて來た10万圓の小遣ひから樂器代を差引いてみると、まだいくらか殘る。何度も出てくる同じ數字を見つめること數十分、これでお土産は何とかなるだらう、よほし、それならば思ひ切つて買つてしまはうと、たうとう決心してしまつた。

 さて、決心したのは良かつたが、それではどうやつて買ひに行かうか。演奏會の終つた後では、樂器屋も閉つてゐるであらうし、だからと言つて今から買ひに行く程の時間もない。明日は朝早くから、ケルンの隣のヒュルト市へ行かなくてはならないので、今日が最後のチャンスになる。なんとかならぬものかと考へ始めるが、小生一人でいくら考へてもどうにもならなかつた。さうだ大石先生に相談すれば何かいい知恵を得られるかも知れないと思ひ、先生の知恵におすがりする事にした。