黛敏郎『涅槃交響曲』2

 『涅槃交響曲』初演の際に黛氏がプログラムに書かれたといふ文章が、CD解説書にありました。

 「ここ数年来、私は鐘に憑かれてしまったようだ。どんなすばらしい音楽も余韻嫋々たる梵鐘の音の前には、全く色褪せた無価値なものとしか響かないとは、どうしたことだろう。」

 私は一讀するや、あっ、と聲を上げさうになりました。不協和音であるにも關らず、ぢっと聽入ってしまふあの響きの正體は鐘だったのです。實に途方もない話です。二百人を越えるであらう、あの巨大なオーケストラが、一齋に鐘の音を奏でてゐるのです。

 黛氏は、NHKの技術研究所の協力を得て、奈良縣東大寺などの梵鐘の響きを、細かく分析されたとのことでした。お寺にぶら下がってゐるもの、佛壇の脇に備へてあるものなど、形の大小、音色の高低と、樣々なる梵鐘があったと思はれます。さうした一つ一つの響き、倍音構成といふものを丹念に分析していったのでせう。

 音といふのは、物と物とがぶつかって、その振動が耳に傳はるものです。其の振動は、ぶつかる物、ぶつけられる物の材質や強度、外觀、ぶつけ方などで倍音構成が違ってきます。この倍音といふのが、響きの正體です。「ピ、ピ、ピ、ポー」といふ時報には、倍音がありません。試しにスプーンとスプーンを輕くぶつけてみて下さい。「チーン」「ジーン」といふ音がします。特に「ジーン」といふ、少し濁った音が出たときに、よく耳を澄まして下さい。色々な高さのいくつもの音が、同時に鳴ってゐることに氣が付かれるでせう。鐘もさうです。「ゴーン」と一つの音が鳴ってゐるやうですが、その余韻まで、ぢっと聽いてみて下さい。實に澤山の音が、色々な高さで同時に鳴ってゐることに氣が付かれるでせう。この同時に鳴ってゐる音を倍音と言ふのです。そして梵鐘は、その特徴的な外觀や材質による、複雑な倍音構成を孕んでゐるのです。お寺によって鐘の響きが違ふのは、この爲なのです。これを黛氏は分析し、音樂にしたのです。