黛敏郎『涅槃交響曲』3

 CD解説には、黛氏によって、またかうも書かれてゐました。

 「ヨーロッパの前衛音楽は、合理的、論理的思考を極限まで推し進めることによって必然的に、(合理的非合理)ないし(論理的非論理)ともいえるような次元に到達しようとしている。/それはいわば(音響)に対する認識を根本から変革するものであり、直感的、感覚的な(音響)の受けとり方を、体質として先天的に持ち合せている日本人にとっては、本能的に把握しうる境地と言える・・・」(「音楽芸術」昭和三十三年十一月號)

 我々が通常の音樂で耳にする和音の殆どは、ヨーロッパの合理的感覺に基づいたものばかりです(とはいへ、近年これすらも節操がなくなってゐるやうですが)。それも、數百年以上前に確立されたものが、殆どそのまま使はれてゐるのです。

 普通の響きに飽き足らなくなったヨーロッパでは、和音に關する樣々な工夫がされて來たやうです。バッハもその一人だと思ひます。バッハは和音の進行に際して、一瞬の不協和音を挿入することで、より劇的な音樂の展開を成功させました。時代を隔てて近代、大體、音など無限の組合はせがあるといふのに、何も「ドレミファソラシド」などといふ音階に拘束されて作曲する必要はない、といふ考へからか、新しい音樂の可能性として、音階を無視した曲が出始めました。「ドレミファソラシド」の間の半音をもすべて使用して、音樂が一節終はるまでは同じ音を使用してはならないといふやうな技法(逆に却って拘束されてゐると思ふのですが)もあるさうです。實に氣持の惡い音樂になりかねません(試しにご自身でピアノなどの鍵盤で試してみませう)が、なんとか雰圍氣を保つことに工夫に工夫を重ねたものと思はれます。(音もさうですが、拍子といふのもまたさうです。「一、二、三、四」とか「一、二、三」といふリズムだけでは飽き足りず、「一、二、三\一、二、三、四\一、二」だとか、どんどん崩して、奇妙な面白さを、大眞面目に追求していったと思はれます。)

 そして、たうとうピアノの鍵盤にあるやうな十二の音すらも飽き足らなくなり、それぞれの音の間の音すら使はうとするやうになったのです。つまり、ピアノの白鍵と黒鍵の間の音をも使って、音樂を發明しようとしたのです。

 かうしたヨオロッパの音樂が行着いた果てが、20世紀の作曲家、ジョン・ケージの「四分三十三秒」といふ曲だと、私には思はれます。ステージにはピアノが一台あります。觀客の拍手に、ステージ脇からソリストがやってきます。彼はピアノの前に座るや、鍵盤の上の蓋をおもむろに閉めます。そのまま、何もしないのです。やがて、蓋を開けます。やっと彈き始めるのかと思ひきや、また閉めてしまひます。つまり第一樂章が終はり、第二樂章に入ったのです。この曲、全三樂章なので、あと三回は開け閉めがあります。結局最後までピアノを彈かない曲だったのです。かうなると、色々理屈はあるのでせうが、私には着いていけません。譜面を持ってをりますが、ご丁寧なことに全樂章のそれぞれに「TACET(休み)」と書いてあります。初演の時に要した時間が「四分三十三秒」だったので、そのまま題名になったとのことです。勿論、本人は大眞面目だったのでせう。

 黛氏が「(合理的非合理)ないし(論理的非論理)ともいえるような次元に到達しようとしている」と、ヨオロッパ音樂の現状について指摘されたの文章は、素人の私にはよく解らぬ處ではあります。しかしながら、音樂の可能性を擴げようとした作曲家達が、自らの提唱した合理的方法によって寧ろ手段を制限し、追いつめられた果てに音を出すことすら出來なくしたといふのは、「合理的非合理」「論理的非論理」と言へるのかも知れません。