黛敏郎『涅槃交響曲』4

 ところが、です。我國の音樂には、最初から「ドレミファソラシド」などないのです。強引にヨオロッパ式に言ふなら、基本になってゐた音階は、「ラシドレミファソラ」、琉球では「ドミファソシド」だったさうで、この音階にあてはまらないやうな音をも自由に駆使して、音樂を奏でてゐたのです。雅樂をお聽きになってみて下さい。今の私達にはちょっと耳慣れない音がするでせう。「ひ〜ぃや〜」と音を下から上に押上げたり、逆に下げたりするやうな音をお聽きになるでせう。和音だってさうです。「ドミソ」といふふうに倍音に從った、すっきりした音ばかりではありません。これら、ヨオロッパで言ふ處の、グリッサンド奏法や、不協和音が普通に使はれて來たのです。普通に使はれたといふことは、ヨオロッパからみれば奇妙な音の組合はせに、しみじみと聽入る感覺を我々の祖先は持ってゐたといふことも出來ると思ひます。もっとも、現代の私達はヨオロッパの音階や和音に耳が慣れてしまってをりますから、「ひ〜ぃや〜」といふ音などを聽きますと、最初は思はず笑ひだしさうになってしまふものですが、それでもいつしか聽き入ってしまひ、心靜かに瑞々しい響きを受止められて來るといふのが不思議な處です。

 さて、鐘の音はどうでせう。あの複雑な、ヨオロッパの音樂にはない響きを、實は私達は子供の頃から耳にしてゐるのではないでせうか。次第に耳にすることも少なくなってはをりますが、子供の頃、お寺が撞く鐘の音を聽いたり、大晦日のテレビ番組を家族で觀ながら除夜の鐘の音を聽いたりといふ經驗くらゐはあるかも知れません。むしろ子供の時ほど、理屈なしに鐘の音に聽き入ってゐるものかも知れません。しかし、鐘だって、滅多矢鱈に撞くものではありません。子供は、生活や儀禮を體驗しながら、鐘は人にとっての節目に撞かれるものだといふことを體得して行くのではないでせうか。そして、大事な時以外は鳴らしてはいけないと思ふやうになるのです。ですから、面白がって勝手に撞いて、和尚にこっぴどく怒られるといふ經驗も大事なのですね(體驗済)。

 かうした體驗を辿ってみますと、例へば、どうして古くからこの鐘といふものが無くなってしまはず、また現代もなほその響きを失ってゐないのか、何故私達が他の鐘ではなくこの鐘を好しとしてゐるのか、などといふ理由を探さうとしても、何だか虚しくなって參ります。子供の頃の體驗もあるでせうが、ではそれだけかと問はれると、まだ何か足りないやうな氣になります。

 大學生の時でしたが、東京の正大寮といふ學生寮へ行った折り、夕刻の静かな部屋にをりましたら、近所のお寺で撞いた鐘の音が「コーン」と聞えてきました。この時、何故にあれ程なつかしいやうな氣持ちになり、鐘の余韻を追ってしまったのでせうか。無論幼少時代にそのやうな毎日を送ってきた譯ではありません。それに、子供の頃、時々お寺で聽いた鐘の音とは、全然違ふ音です。それでも、その鐘の音を聽く時が、いつも正大寮を訪れて一番心安らかになる時でした(寮生だった皆さん、ごめんなさいね(笑))。

 この感覺はどこから來たのでせうか。私と全く同じ外的環境にてこの鐘の音を聽いたヨオロッパの人は、私と同じ感覺になるのでせうか。一度正大寮に連れて行って試してみたいものです。そして『涅槃交響曲』を聽いたヨオロッパの方が、この曲はお寺の梵鐘の響きで作られてゐる、と聞かされたならば、私のやうな、あっ、といふ感銘、ちゃうど何かを思ひ出したやうなあの感覺が沸上がるものでせうか。

 話が逸れたやうですが、つまるところ、私は『涅槃交響曲』に聽き入ってしまひ、非常に滿足だったのです。音樂を聽いてのかういふ滿足感は、恐らく初めてと思はれるのです。ヨオロッパの音樂も私を感動させますが、『涅槃交響曲』のやうな滿足感とは違ふのです。『涅槃交響曲』を聽き終へて、何か、聽きたかった音、聽きたかった音樂を、全部聽いてしまったやうな感じなのです。これは、不思議なことです。實に不思議です。色々とその理由を辿って書いて參りましたが、またここで解らなくなってしまひました。しかし、「鐘の音だ」と知った時、この感動の源が判然とした氣がしたのです。この直觀は信じるに足るものと思ってをります。

 最後まで讀んで下さった皆樣。結局譯の解らぬお話となり、大變恐縮です。狐につままれたやうに、すっきりしない後讀感を持たれましたら、どうか『涅槃交響曲』をご自身でお聽きになってみて下さい。きっとすっきりすることと思はれます。あ、そんな、マウスを投げつけないで下さいっっっ。

【音源】 黛敏郎 『涅槃』交響曲
     岩城宏之指揮 東京都交響楽団 東京混声合唱団

     奈良法相宗薬師寺 聲明 薬師悔過(←これがまたすごい)
     聲明:薬師寺

     DENON COCO 78839