宮澤賢治の「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」

 パソコンのデータを整理してゐたら、こんな文章が出てきた。平成8年に書いて、以降陽の目をみなかった文章ではあるが、載せておかうかと思ふ。


 小學校、三年生か、四年生の頃だつた。教室に入ると、「雨ニモマケズ 風ニモマケズ・・・・」といふ宮澤賢治の詩編が、黒板一杯に書かれてゐた。これを記したのは、もう五十歳をとつくに越えてをられた擔任の先生だつた。この先生は、生徒が後ろを向いてゐれば水鉄砲をぶつかけるとか、授業中、おもむろに怪物のお面なぞを被つて生從を脅かすとか、をかしなことばかりする先生だつたが、私は大好きだつた。今はどこか田舎のお寺でお坊さんをやつてゐることであらうその先生は、暗唱してゐるこの詩の全文を私達生徒に聽かせた。それが私の、宮澤賢治初體驗であつた。

 ところで當時、子供のくせに本當にませてゐた私は、この詩の次の箇所に難癖をつけたやうな憶えがある。

「ヒデリノトキハ ナミダヲナガシ
 サムサノナツハ オロオロアルキ」

 何故作者は涙を流すだけなのか、何故おろおろするだけなのか、本當に大變なことであると思ふのであれば、泣いてる暇などないだらうし、おろおろせずに手を貸すべきだ、私は概ねそのやうなことを打ちつけに言つた。自分は他の人が氣付かぬやうな處に氣が付いてゐるといふ風に、生意氣になつてゐた私は、先生が「よく氣が付きましたねえ」と褒めてくれるものと思ひこんでゐた。しかし、先生は、「ああ、さうですねえ」と仰ると、しばらく何処か遠くをぢつと眺めてをられるやうであつた。そして先生は、それ以上は何も仰らなかつた。ほんの一瞬の出來事であつたやうであるが、小生の記憶にはまざまざと殘つてゐる。

 時を隔てて、私は大學に進學し、學問に觸れ、師友と書物に恵まれた。自分の限りある命を學問に賭したい、そしてこの學問を後輩達に傳へて行きたい、さういふ若々しい情熱から、私は教員を志した。しかし、浪人までしてやうやく内定された高校教師の職も、いくつかの事情から、正式採用前に辭退しなければならなくなつた。人生の内には、他人から見れば、何だつてこんな馬鹿な選擇をしたのか、勿體ない、と言はれるやうな選擇をせざるを得ない大事が、一つや二つあるものなのかも知れない。そして、それは、私の生れて初めての絶望であつた。我が若き心に、陽が燦々と降注いでゐるかのやうに描かれてゐた夢も希望も、この時に、すつかり打砕かれてしまつた。

 しかし、苦しんでゐたのは、私だけではなかつた。父母は、このことについて、何も私に漏さぬが、私はある時、兩親が私には計り知れない苦惱を抱へてゐると感ずることがあつた。他ならぬ私の身の上を案じてである。我が師や友もさうであつた。夕刻の研究室で盃を交し、教職を斷念した私のをうへを案じて涙を流してくださる師のゐることを、どれだけ心強く思つたことか。他との交りの中にあれば、男一人、どんな仕事に就いても生きて行かれる、と激勵の便りを送つてくれた友が、どれだけ有難かつたことか。

 皆、大變な苦勞に直面しながら、一人一人、人生を歩んでゐる。だが、決して一人きりで歩んでゐるのではない。自ら歩み、他から助けられて歩んでゐるのである。直接手を貸さぬから、何の助けにもならないのでは決してない。父母や師友が私のことを思つて「ナミダヲナガシ」、「オロオロ」歩いてくれてゐることに氣付いた時、私の心は緊張し、現實生活に目を向けさせられるのである。さう感じさせられてゐるから、次の夢もきっと現れてくる。そして今度は私が他の人の助けになれたら、と思ふ。

 あの時、私の小生意氣な言ひぐさを、先生はどのやうに聽いてをられたのであらうか。いつかはお尋ねしたいと、密かに思つてゐる。勿論一升瓶持參で。