10/12/20 お見舞ひ

 妹と二人で、脳梗塞で突如倒れた伯母のお見舞ひに行った。處は山形縣東根市。小生實に17年ぶりの東根入りであった。「次にみんなで會へるのは、誰かの結婚式か葬式の時だっちゃなあ」、さう冗談混じりに從姉から言はれたあの時から、もう17年も經ってゐたのであった。

 中學校に入るまで、小生は毎夏東根の厄介になった。鳴きしきる蝉、沸き上がる入道雲、真青な空の下で真黒になって、毎日妹や再從弟達と走り回ってゐた。さういふ小生らを一番可愛がってくれたのが、倒れた伯母であった。母と歳の大分離れた伯母のことを、小生らは「ばぁちゃん、ばぁちゃん」と呼んで慕ってゐた。田舎の女性らしく、淺黒い顏をして、ぶっくりと太って、いつも手ぬぐひを腰にし、田畑の仕事に勤しんでゐた。小生らが惡さなどすると、たちどころに「こら! なにさすんなだ!」と怒られたものだった。

 東根に向かふ列車の中、ベッドに横たはる伯母の姿を想像しては、氣が重くなった。窓の外に、川が見えた。見覺えのある風景に「おい、ここぢゃないか」と妹に聲をかけた。やがてアナウンスで次が東根の驛だと告げられる。驛を出て直ぐ、タクシーで病院へ向かった。

 病室ではすっかり年老いた伯父と從姉(むしろ小生らには叔母に近い感覺)が看病してゐた。小生らの突然の來訪に氣付いた皆が目を丸くして「あいや、よく來たにゃあ! 今着いたのか?」と、しばし部屋は驚きと再會の喜びにつつまれる。「ばぁちゃんを見てやってけれ」と言はれ、ベッドの側へ行く。かういふ形では、逢ひたくなかった。

 恐る恐る顏を見た。ばあちゃんはすっかり眠ってゐるやうだった。口を少し開けて眠ってゐる伯母の鼻には酸素吸入器の管が差し込んであり、ベッド脇には何本もの點滴液がぶら下がってゐる。一週間前の朝、上着を着替へる格好のまま、部屋に倒れてゐたといふ。醫者からは、ここ二週間が山ですと宣告された。

 從姉が「ばぁちゃん、英一君たちが十何年ぶりに來てけったぞ。眼さ開けて見てみろ」と大きな聲で呼びかけるが、伯母は眼を閉じたままで、何の反應もない。小一時間ほど、脚をさすったり、手をさすったりしてゐたが、たうとう伯母は眼を開けなかった。「折角十何年ぶりに來たのににゃぁ、ばあちゃんわかんないんだで」、さう言ふ從姉の言葉が、小生の氣をより一層重くさせる。

 「とにかくは一旦家さ來い、一休みすんなねば。」、さう從姉に促される。枕元に顏を近づけ、「ばあちゃん、また來るよ」と聲をかけ、肩をポンと叩いたとたん、伯母の眼がパチっと開いた。「あ、開いた」といふ小生の聲に、伯母の眼は瞬時に反應し、小生を驚いたやうに見てゐる。「こんにちはばあちゃん、英一だぞ、久しぶりに來たぞ」と言ふと、「ぁぁ・・・」と細い聲を出して、小生を見たまま頷いてゐる。「あいや、ばあちゃん、眼ぇ開いたか、なぁ、英一君達來てけったんだ、よかったなぁ、わかっか、めぐちゃんもだぞ」。伯母は小生と妹の顏を見ては頷いていた。普段殆ど口を開かず、じっと黙ってゐる伯父が、「わがってんだ、ばあ、わがってんだ・・・」と、本當に嬉しさうに言ふ。

 それからしばらく、伯母はぼうっとしてゐたが、陽が落ちる頃、また眠り始めた。一旦家に引き上げ、翌日お見舞ひに行くこととなる。

 翌日の朝、着替えを済ませて、泊めて貰った部屋の片づけをしてゐた。部屋の片隅に、額縁が重ねてあるのが、ふと眼に止まった。昔の寫眞のやうである。その中に、どこかの寫眞館で撮ったものなのか、伯母とまだ子供の頃の再従兄弟達とが一緒に寫ってゐるものがあった。手に取って、埃を拂ひ、立てかけて眺めてゐた。三人の孫の側で氣丈に、しかし優しく微笑むばあちゃんも、眉間に皺を寄せて口を半開きにしてゐる再従兄弟達も、小生の記憶のままだった。ここに、小生の東根の思ひ出は、全部詰まってゐるやうな氣がした。小生は寫ってゐないが、この頃の小生までもが思ひ出された。

 伯母は時々目を覺ましては、ぼうっとしたり、話しかける言葉に頷いたりする。右手、右足は反應がない。妹が脚をさすりながら、「ねぇ、右足動いてない?」と言ふので、じっと見てゐると、確かに時々布團が持ち上がる。「ばあちゃん、右足感じるか、動かして見ろ」と從姉が言ふと、伯母はなんと右膝をわづかながら立てた。「動いた!」皆驚いた。「ばあちゃん、動いたんねぇか、よかったなぁ! うん、痛ぇか? どこが痛ぇ?」「あ・・・・っし、あっしいてぇ・・・」「あぁ、わがった、わがった、もうおろしてな、でも動いたにゃぁ」

 伯母の反應に小生は驚いた。小生の父方の祖父が脳溢血で倒れ、看病の甲斐なく他界してしまった經驗があったからだ。一月以上入院してゐた祖父は、獰猛なうなり聲こそ上げたが、言葉で意思を傳へることも、麻痺した半身を動かすこともつひぞなく、徹夜で看病する我々も、毎日が暗く重苦しい鬪ひであったのだ。

 「ばあちゃん、また來るからな」 頷く伯母を殘して、妹と病室を出ようとする。伯母は、小生らが見えなくなるまで、じっとこちらを見てゐた。去りがたい思ひがこみ上げたが、去らねばならず、小生は精一杯笑ってゐたと思ふが、何とも悲しかった。

 果たして伯母は回復に向かってゐるのだらうか。もう一度、會ふことが出來るのだらうか。たまらない氣持ちになりながら、東根を後にした。