12/08/16 「筑波旅行記」


 8月14〜15日に掛けて、筑波學園都市吹奏樂團へ道場破り・・・ではなく、樂器擔いで見学に行って來ました。團員のAKIKO さんのお手を患はせて實現の運びとなりました。有り難うございました! ホルストさんの「組曲第一番」、グレインジャーさんの「コロニアル・ソング」、A.リードの「アレルヤ! ラウダムス・テ」の合奏に參加させていただきました。10月の演奏会ではこの他に、デ・メイの「指輪物語」もやるのださうです。澁い曲ばかりで、ワタシとしては、實に羨ましいプログラムでした。


 ワタシは機會があれば、余所の樂團の練習に參加させて頂いてをります。これまでにも、六門會(りくとかい)吹奏樂團、コンクシェルバンド、東京ブラスコンコード、東京成正人吹奏樂團の練習に參加させていただきました。これは、何より、自分の演奏活動への刺激を得る爲です。皆、それぞれの仕事や家庭を持ちながら、演奏活動を續けてゐる譯ですが、さうした人と音を交はし會ふところに、なんとも言へない樂しみがあるのですね。これまで、快く見學を許して下さった皆さまに、本當に感謝してをります。これは、これからも、機會を見つけて、續けていかうと思ってゐます。


 さてさて、筑波へはレンタカーで行きましたので、練習の後は健康ランドで一泊。心おきなくビールを呑みました。その後、假眠室でガーガー寝る・・・豫定でしたが、健康ランド泊必需品の耳栓を忘れてしまった爲、現場は強烈ないびき&歯ぎしり! 廊下に布團を引きずり出して寝るハメに。すると、やっぱり廊下に布團を敷いていた家族連れの子供達が、興奮して寝られずに、こっちを氣にしながら、馬鹿やってゐるので、退屈しのぎに一緒に馬鹿をやることにしました(笑)。怒濤の怪談大會、手品大會と續きましたが、盛り上がる度に「靜かにしろ〜」(いかりや長助風)と言はなければなりませんでした。こんな調子で氣が付けば午前3時。まだやってとせがむ子供らをなだめて就寝。翌朝、こっちが朝風呂から歸ってきても、みんな死んだやうに眠ってゐて、お父さんらに無理矢理起こされてました。うはは、ちと可哀相だったな(笑)。


 コンビニで朝食を買って、一路霞ヶ浦の「豫科練記念館」へ。町役場(ここで半旗が掲揚されてゐるのを見て、不覺にも敗戰記念日であったことを思ひ出した)や自衛隊駐屯地で場所を教へて貰ひながら、辿り着きました。「雄翔館」と名付けられた豫科練記念館は、自衛隊の武器學校内に建てられてゐました。寝不足もあって、じっくり見學することは出來ませんでしたが、古い兵舎を現在も活用してゐまして、その雰圍氣が印象に殘りました。また回天特攻隊員として亡くなられた方の遺書に「古から人は多いけれども 眞の死に場所を見つけて死んだ人は少ない。我は今、御國の爲に、天皇陛下の爲に、父母の爲に、家族の爲に、死に行く。眞の死に場所を得て死に行けることを、有り難く思ってゐる」といふ意味の文章がありまして、今、自分にとっての「眞の死に場所」とは何であらうかと、思ひ巡らしてをりました。

 武器學校の敷地には、日本軍の砲台(据付けるものではなく、隊と一緒に移動しつつ使用したものと思はれる)も展示してありました。どのやうに構へて打ったのか、裏へ回って、素人ながらに考へてをりました。防御板と言ふのでせうか、その後ろにしゃがみつつ、砲身の向かうに眼をやらうとして驚きました。敵の彈や、飛んでくるモノから身を護る爲に取り付けてあるであらうこの板が、實に小さいのです。とても防御になるやうな代物ではありませんでした。砲兵さん達は、この實に小さい板の後ろから、敵に照準を合はせ、敵の砲火を浴びつつ、命懸けで攻撃をして行った譯です。なんといふ過酷な状況であったか、そしてこれを克服して、大戰初期、次々に勝利をおさめて行ったことを想像しますと、なんとたくましい方たちであったのかと驚かずにはゐられませんでした。


 武器學校を後にし、一面田圃の道を通ったりしながら、霞ヶ浦まで車を走らせ、一服。その後、ファミレス系焼肉店で晝食。アルバイト店員が皆休んでゐたらしく、母娘らしきたった2人がホールを走り回ってゐた姿に、なんだかいたたまれなくなり、食後のウーロン茶が運ばれて來るのを待たずに、店を出ました。誰かが休んでゐる間は、誰かが働いてゐてくれてゐるのですね。それにしても、あの親子、顏がそっくりだったなぁ(笑)。子供の方は名札を着けてゐなかったけれど、間違ひなく親子だな、あれは。お母さんは、どう言って子供に仕事を手傳はせたのだらうか、そんなやりとりを想像しながら、水戸街道を延々南下して歸ってきました