13/8/14 「靖國神社參拜」


 終戰記念日を前にして、首相の靖國神社參拜に關する報道が喧しかった。連日繰り拡げられるやうな、「首相はまだ靖國神社參拜を斷念しないのか」といふ報道には、うんざりする感があった。うんざりするほど報道して、私達國民に「こんなにワイワイ騒ぐなら、首相は早いとこ『行きません』と言ってくれないものかなぁ」と思はせやうとしてゐるやうにさへ、感じた。呼ばれてもゐないのに、わざわざチャイナに出向くお偉いさん、わずか5人ほどの抗議行動を「猛然抗議」として大々的に採り上げる報道ばかり。その一方、參拜に賛成の市民集會(500人以上集まったさうだ)の報道は、殆どなし。果ては、「首相は日本遺族會の寄付金目當てで、參拜を強行しようとしてゐる」といふ、下衆な勘ぐりまで、まことしやかに書かれた。一國の首相といふ立場にあって、これまでの祖先の命が積み重ねられてきたことに對する感謝と、私達を見守って下さるやう手を合はせる儀式の一つに出向くといふ、さうした首相の心持ちを拜察するべきではないか、といふやうな報道や言論は、果たしてなされたのであらうか。

 8月2日から6日にかけて、社團法人國民文化研究會の「第46回 全國學生青年合宿教室」が、御殿場にて催された。友人からの誘ひもあり、久しぶりに裏方の手傳ひをすることになった。途中、別の友人との約束もあり、一旦帰京した。報道は、合宿に向ふ前よりも、一層喧しくなってゐた。私は、再び御殿場に向ふバスの中で、いかなる報道であったかを思ひ返しながら、「なんとしても首相に參拜して頂きたい」と思ひつつ、合宿地に到着した。

 學生時代に毎年參加してゐたこの合宿教室をご縁に、私淑してゐた先生がいらした。かなりご高齢でいらっしゃるにも關らず、遠く青森よりいらっしゃってゐたのである。スサノオの命の如く、厳しく、豪快な先生であられて、誰もが、その先生から褒められるやうなことがあれば、もう神樣から褒めて頂いたやうな、喜びで一杯になったものだ。私などは、「岡山君は大變頭のいい方だけれども・・・」と、よく叱られたものだった。

 その先生のお聲が、急に耳に飛び込んできた。どなたかとお話をされてゐたやうで、内容までは聞き取れなかったのだが、お聲が聞こえてくるや、ピッと背筋が伸びる思ひがした。「岡山君、首相が參拜するべきだと君は言ふが、そんなものぢゃないんだ! 首相が參拜されるかどうかぢゃなく、君が靖國神社に行って、手を合はせなきゃ、なんにもならないんだ!」 ものすごいお聲を私は聽いた。もちろん、先生はそのやうなお話はされてゐなかった。合宿終了後の自己紹介の席上、私はそのことを正直にお話しした。先生は、私の顏を眞劍に見つめられながら、その話をじっと聽いてをられた。

 首相が參拜されようとされまいと、何としても、私は靖國神社に行かねばならないと思った。しかし、ずぼらな人間である。一日一日とその日が延びて行った。8月12日になって、便所の暦を見ると、8月13日は神佛をお祀りするのには、最高の日であるとあった。明日行くしかない、と思ひつつ、その日は夜更かししてしまった。目が覺めたのは、とっくに午後であった。急いで身支度をしてゐると、仕事に出る前の父と母が、どこへ行くのかと聞く。靖國神社にお參りに行くと言ふと、顏を見合はせてゐた。どうしたのかと聞くと、首相も今日參拜するらしいと言ふ。一瞬躊躇った。樣々な立場の澤山の人々と、警察や報道の人達でごったがへして、參拜もままならないのではないかと思ったのだ。しかし、今日といふ絶好の日は、もうない。この佳き日に氣付いたのも、何か大いなるお力のお陰かも知れないと思ひ、出掛けることにした。

 地下鉄九段下の驛から表に出ると、ものすごい音が聞こえた。ヘリコプターがそこら中を回ってゐる。信號を待つ間に數へたら、13機もあった。大きな鳥居に一禮してくぐると、大村益次郎の記念像の邊りに、小さな人垣があり、警察官が周りを圍ってゐる。通りすがりに覗くと、首相參拜に反對する活動家が何やら叫んでゐた。僅か5名ほど。またその近くでも、大段幕を掲げて、參拜反對のシュプレヒコールをしてゐる。この者僅かに3名。そして韓國の人であらうか、10名ほどが、やはり大段幕(ハングル文字)を掲げて座り込んでゐた。そしてその向かうで、ワッショイワッショイと、各々手に「小泉首相參拜すべからず」といった内容の紙を持って、叫んでゐた者が、10數名程。私は眼にしたのは、正にその程度であった。しかしながら、きっと、この者達は、今夜の報道で、大々的に採り上げられることであらうと思った。この一方で、參拜に賛成してゐる者も、10名ほどで何か叫んでゐた。恐らくこの者達は、殆ど報道されないか、狂信的な集團、或いは偏向した政治結社の一味としてしか報道されないであらうと思った。連日の報道を思ひ起こしながら、報道の何が公正なものかと思った。

 青く錆びた鳥居をくぐると、途端に人の數が増した。どうやら、首相が參拜してゐるとあって、一斉に人が詰めかけたのである。後ろから、強引に押しのけて來る人々に、なんだか悲しい氣持ちになった。ここは神聖な場所ではないか。そして眞後ろで、大きな聲で、「今、小泉首相が參拜してゐる模樣です。それにしても、すごい人數です!」と言ってゐるのが聞こえた。五月蠅いなぁ、と思ひつつ振り返ると、どこかの報道だった。テレビカメラとマイクを持った一つの固まりだった。喧しいので、先に行きたい人を先に通すことにした。本殿の前にゐた人々が、一斉に右に動いた。きっと首相を追いかけたのであらう。少し空いた本殿に辿り着き、お賽銭、敬禮、手を合はせて、心に思ひ浮かぶことをお祈りした。後ろから、しつこく割り込んで來る人がゐた。手を合はせたまま眼を開けると、なんだ、その人はお祈りをしてなどゐない。また悲しい氣持ちになった。

 行くからには、昇殿させて頂き、玉串をささげて、改めてお祈りするつもりであった。しかし、昇殿參拜受付はとっくに終はってゐた。私は、まだ、一度も昇殿してのお參りをしたことがなかったのだ。本殿に向って、すみませんでした、出直して參ります、と手を合はせる。休憩所で御神酒を頂く。前に座ってゐたご年輩のご夫婦とお話しする。奥さんは殆ど何も仰らなかったが、旦那さんは陸軍にいらした方で、きつい面もちで、軍隊に對して、また當時の日本に對する不滿を色々話された。しかし、私なりに思ふことをお話しする内に、その御表情が、次第に柔らかくなって行かれたやうに感じられたことが嬉しかった。

 テレビで報道を見てゐるであらう兩親のことを思ひ出し、なにごともないと電話をした。久しぶりに、學生時代によく行った天ぷら屋を訪ねた。親父は變らない。ラジオでは、首相が參拜したことに對しての、中國と韓國の憤りの聲を、さもありなむと語る聲が聞こえる。今日は大騒ぎですね、と親父に言ふと、「大體、報道が騒ぎ過ぎなんだよ」と笑ってゐた。天ぷらの味は、落ちてゐた。自分の精神状態のせゐか、この安い値段で、いまも商ひをしてゐるせゐなのか。

 家に歸って、一杯やってゐると、吹奏樂團の友人から電話が來た。私がテレビに映った、と。ああ、五月蠅いなぁと、後ろを振り返った時だ。「熟慮の結果がこれか」とばかりに、テレビでは報道してゐた。まるで、參拜を斷念しなければ、熟慮ではない、と言ってゐるやうなものだ。母と一杯やりながら、なんでこんなに騒ぎ立てるんだらう、なんで參拜が首相の熟慮の結果と考へることをしないのだらう、と話してゐた。テレビでは、かつての軍人さんを呼んでの對談をやってゐた。畫面を見れば、ありもしなかったこと、人から聞いた噂を、まるで自分が體驗したことであったかのやうに、まことしやかに語ってきた、有名な活動家であった。なんだこれは、と言ふと、母は言った。安心しなさい、神樣は、この一部始終を見てをられるよ、と。