14/8/2, 15/5/29 「怪談二題」


 夏の讀書(笑)として、鈴木光司「リング」を讀み始め(妹から文庫本を貰って、前にも讀んだんだけれど)、「らせん」「ループ」と讀み終へました。やっぱり、「リング」が一番怖かったですね。讀んでる最中に部屋で物音がしたり、何かの雰圍氣を感じたりなんかしましたからね。久しぶりに、トイレに行きづらくなりました(笑)。

 「らせん」「ループ」に行くに從って、「怨念」と思はれてゐた數々の恐怖が、物質的事象に解説されて行き、果てには、ただのSF推理小説になってしまったやうな氣がしました。勿論、その筋書きに從って、こちとら讀み手の恐怖の度合いが段々弱まってしまひました。「リング」に充滿してゐたのは、登場人物が感じてゐた、嫌な雰圍氣や、とてつもない不安と恐怖でありました。鈴木氏は、正に怪談の語り部としては天才だと思ひました。なぜなら、お化けを見て怖いといふのは、お化けがこの世にない物だと知ることが出來て、さうして初めて怖くなる譯ではないからです。何とも知れない、異樣なものを見たり、感じたりするから怖くなるのです。讀み手に異樣なものを遭遇させ、異樣な感覺におとしいれることに、作者の手腕が問はれるのだと思ひます。

 泉鏡花に「高野聖」といふ、お化けの話があります。旅の途中にえらい綺麗な女にあった坊さんが、次第にその女に心惹かれて行くのですが、他の登場人物、群がってくる獸や蠢などの異樣な氣配や、女の出す妖しい雰圍氣といふのが、次第次第に讀む者の心の内に、嫌な予感と好奇心とを呼び起こさせるのです。否、異變は女と會ふ前から、既に始まってゐたのです。結果、女は化け物であり、坊さんは命からがら逃げ出すのですが、女が恐ろしい化け物であったといふことよりも、それを確信するまでの異樣な氣配や妖しい雰圍氣の方が、ずっと恐ろしく、鮮烈で、心に殘ってゐる次第なのです。

 お化けを見る機會といふのは少ないでせうが、ちょっとした氣配を感じることは、日常よくあります。その氣配を、取るに足らぬものとして、大して氣にも留めないのが我々の日常生活ではありませんでせうか。しかし、何かの拍子でそこから足を踏み出したとき、ちょっとした氣配がとてつもなく大きな怖れを導く。怪談は、我々を日常生活から一歩踏み出させ、さうした經驗をさせてくれるものだといふ氣がします。


 突然、ハタと思ったことがあったので、書きます。

 小泉八雲(ラフカディオ・ヘルン)に「和解」といふ日本の怪談を譯したものがあります。貧乏な夫婦に、今で言ふ公務員の職の話が舞ひ込み、夫は妻と離縁してその職に就くことを決意します。妻は夫がそれで幸せになるのであれば、身を省みず夫を送り出すのでした。年は過ぎゆき、公職に就き、位の上がった夫は、やがて新しい妻を迎へます。しかし、かつての妻がどうしても忘れられず、それどころか日ごとにかつての妻の愛情がまざまざと感じられるに至り、つひに任期満了と共に、新しい妻を里に歸し、大急ぎで元の妻の元に歸ります。昔のままのボロ屋に足を踏み入れた夫は、貧しいながらも美しいままの妻に出迎へられます。その夜、夫は妻に自分が見聞きしたことのありったけを語りつつ、自分が如何に我儘であったかを心の底から詫び、再び一緒に暮らさうと言ふのです。夜更けまでさうして語らひ、夫はウトウトと眠りに落ちるのでした。翌朝、夫が目覺めると、ボロ屋はさらに酷い有樣であることに氣が付きます。どういふことかと怪しんだ夫は、自分に添寝する妻の顏を見て仰天します。そこには、白骨と化した妻の屍が横たはってゐたのでありました・・・・

 記憶を辿ると、どうもそのやうな話です。これを聽いたのは、ワタシが中學生の時でした。丁度、怪談特集のテレビ番組で、この話が放映されてゐたのです。その當時は、妻の屍の姿にショックを受け、なんといふ悲惨な話だらう、といふ風に思ったものでした。そして、題名の「和解」といふ意味には、何の關心も持たなかったのでした。

 さて、ワタシがハタと思ったのは、その「和解」といふ題名だったのでした。今まで、なぜこの物語の題が「和解」なのか、特に氣にも留めなかったのですが、今は、その「和解」の意味が、ずんと心に響いて來ます。夫は、妻の亡靈に、「こん畜生め」と化かされたのではないのです。夫が己の道に成功を収めて歸って、心のありの丈を語る、妻はそれを聽いて、やうやくこの世を離れ、死ぬことが出來たといふことでせう。なんとも悲しいですが、またなんとも美しい話だと思ひました。