心頭滅却すれば・・・

 「心頭滅却すれば火もまた涼し」 幼い頃、夏休みに祖父の家へ行くと、いつもこの言葉を聽かされた。私が「暑い暑い」と口癖のやうに言ふと、決って「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言ひ返すのだ。もともとこの言を發した人の境地になど、私がなれるとも思へないのだが、最近聽いた話と、自分の體驗とで、何だかこの言葉が久しぶりにふっと浮んできたのであった。


 何日か前だったが、テレビで人間の脳に關するメカニズムの番組をやってゐた。年老いた方が、病により脳の半分を切取られるといふ大手術を經て、現在、旦那さんの介護を受けながら、元氣に過ごされてゐるといふ話であった。その方は、言語の領域を失ひ、言葉を喪失してしまった。脳のどっち方だか忘れてしまったが、どっちかが無いと、言語を喪失してしまふのださうだ。そこで旦那さんは一から言葉を教へ、毎日格鬪するのであるが、當の奥さんは、猛烈に反發する。時には旦那さんの髪の毛を引掴んでまで反抗するのである。しかし、醫師が懇切丁寧に病状を診斷する言葉には、反抗しないのである。言葉を失ひ、まるで赤子のやうになった奥さんであるが、人にはこれまで生きてきた經驗があり、その經驗が奥さんをして反抗させるのだといふ。ここには、意志がある。己の認識と判斷がある。赤子がいやいやをするのではなく、自分が子供扱ひされることに對しての經驗的な拒否なのだといふのである。

 番組を觀終へて、ふと思った。この婦人は、言語領域を失ひながらも、旦那さんや醫師の言葉を理解してゐるとは言へないだらうか。その認識が判斷を導き、行動に出る。なんと不可思議な世界だらう。もし脳に言語の記憶といふものがあるとするなら、その箇所を切除すれば言語は無くなってしまひ、またゼロから言語を習得しなければならぬ。しかし、旦那さんの言葉に反應し、医師の言葉に反應する婦人を觀てゐると、脳に記憶があるのではなくて、またどこか別の處に記憶、精神があるやうにも思へる。脳はその精神を發する爲の言語を飜譯する器官なのかもしれない、と。

 ちなみにこのご夫人は、次第に言葉を發するやうになったさうだが、それと同時に、殘された脳に言語領域が發生したといふことである。これまた、何たる不可思議!


 さて、もう一つ。私は今、工業用ゴムの仕事を中心にしてゐるのだが、今日はその試作品をお客さんに持込むことになった。試作が遲れた爲に、協力工場へ材料を持込み、その場で熱整形し、直ぐに仕上げをして持って行くこととなった。江戸川區の果てに家内制半機械工業といふ感じの工場があり、そこへ上司と驅けつけて、目の前でゴムを高熱によって整形し、仕上げ作業をしたのである。民家の土間に機械と作業臺を竝べたやうな處と思へばよい。クーラーなどは勿論無い。窓には簾が掛ってゐる。蝉の鳴きしきる中、ゴムを成型するプレス機の熱を浴びて大汗をかきつつ、上司と製品のバリを取除く作業に取かかった。

 すると、どうだらう。來た時には「こりゃ冗談ぢゃないや、いつも作業してゐる人は可哀相だなぁ」と思ったくらゐに暑くてたまらなかったのだが、作業を始めたとたんに、暑くなくなった。どうしたら効率良く、そして奇麗に仕上げられるだらう、と思ひつつ夢中で作業をし續けたのだった。そして、よし、このくらい出來れば良いだらう、と數量があがった瞬間、再びどっと暑くなった。

 外的環境は殆ど變ってゐないと思はれる以上、變化したのは内的環境である。心があることに集中したが故に、私の脳が刺激を受け、感覺を司ったのであらう。普通は感覺的な刺激が脳を通して精神を司ると言はれるのであらうが、さうとばかりは言へないやうである。


 「心頭滅却すれば火もまた涼し」 滅却といふのは、よく分からない。しかし、心頭といふ言葉に心を留めたい。いにしへの人もまた、經驗的に「心」と「頭」、「精神」と「肉體」について、思ひを巡らしてゐたのであらうか。そんなことを思ったのであった。