第二節 家庭教師としての青年時代

   一、苦しい大學生時代

   二、チューリヒ時代

   三、ライプツィヒ時代

 一、苦しい大學生時代

  後援者の死
  貧困な生活と家庭教師の日々

 一七八〇年、十八歳になつたフィヒテはシュールプフォルタを優秀な成績で卒業すると、イェーナ大學の神學部への入學を希望した。フィヒテは當初、實母の希望もあつて牧師にならうと考へてゐたからである。ところがこの年、絶大なる後援者であつたミルティツ男爵が三十四歳の若さで他界してしまふ。フィヒテは何とかイェーナ大學へ入學したものの、經濟的援助は殆どなく、家庭教師をして學費を稼ぎながら研究をせねばならなくなつたのである。翌一七八一年(十九歳)にはライプツィヒ大學に移り、法律、哲學を中心に學んでゐたが、たうとうミルティツ家からの援助が全く期待出來なくなり、また借金も抱へてゐた爲、大學での勉強を斷念して、家庭教師の仕事を中心にせざるを得なくなつてしまつた。フィヒテのかうした貧乏な生活は二十歳代の後半に至るまで續き、その間にザクセンのあちこちで家庭教師をしなければならなかつたのである。

 二、チューリヒ時代

  オットー家の教育係
  生涯の伴侶となる女性との出會ひ

 一七八八年(二十六歳)にフィヒテは、友人の勸めから、スイスはチューリヒのオットー家にて住込みの家庭教師をする。しかし、オットー家の子供達との付き合ひ、そして雇主であるオットー夫妻との付き合ひは仲々上手く行かなかつた。子供達には自分の思ひが傳はらず、又夫妻とは教育に對する捉へ方が著しく違つてゐたのである。かうしてフィヒテにとつて教育の問題は一層切實で深刻なものになつて行つた。そこでフィヒテは、ペスタロッチをはじめとする所謂教育思想家達の著書を熱心に讀んで行くのだが、オットー家の人々とはたうとう上手く行かなかつたやうである。

 一方このチューリヒ滯在中に、フィヒテは多くの友人を得る機會に恵まれた。そしてその中の一人の女性、ヨハンナ=ラーン( Johanna Rahn 1758-1819 )との熱烈な戀愛の末、一七九〇年に婚約した。フィヒテ二十八歳の春の事であつた。

 三、ライプツィヒ時代

  カント哲學との出會ひ

 ヨハンナと婚約したフィヒテであつたが、新しい家庭教師先であるライプツィヒへ、單身にて再び赴かねばならなかつた。このライプツィヒにてまたもや運命的な出會ひが待ち受けてゐた。フィヒテは一學生から、當時存命中の大哲學者、エマニュエル=カント( Immanuel Kant 1724-1804 )の哲學について個人教授して欲しいと頼まれたのである。フィヒテはそれまでカントの名前は知つてゐたものの、まともに取組んだ事がなかつたとあつて、この機にカントの著作を讀み進める。そこでフィヒテは、カントの言ふ「神より與へられた人格」と「人間の自由」について、つまり我々が生きるに當つての「必然」と「自由」の問題について、大いに刺戟を受け、感動する。貧しい暮らしを續けざるを得ず、また人と交はる事の難しさを痛感して生きてきたフィヒテは、自己の運命にどう立ち向かって生きて行くかといふ哲學を、切實な問ひとしてカントから呼び起こされたのであつた。かうした切掛けで、フィヒテは、カントを徹底的に讀んで行き、哲學の從たる道を進む事を決心したのである。