第一節 歴史的背景

 一七八九年に起つたフランス大革命後に樹立したフランス共和制は、ナポレオン=ボナパルト( Napoleon Bonaparte 1769-1821 )の登場によつて、一八〇四年に帝政へと代はる。ナポレオンは一七九九年のクーデターによつて政権を握つて以來、フランスのみならず、イタリア、エジプト、オーストリア、ドイツ、スペイン等、ヨオロッパ各地へ遠征、出兵し、着實にその支配を擴げて行つたのである。

 このナポレオンによるドイツ支配の主なる處を見てみると、まづ、一八〇五年、オランダが征服された事によつて、北西ドイツ一帶(神聖ローマ帝國内)のプロイセン、オーストリア領が奪はれる。次いで一八〇六年七月、ナポレオンは、對プロイセン・オーストリア聯合である「ライン同盟」を南ドイツ諸邦に結ばせて、自らその盟主となる。これによつて南部ドイツのプロイセン・オーストリア領は消滅し、ライン同盟下の諸邦は總てフランスに從屬する事になつた。さらに、このライン同盟における南ドイツ十六邦は、神聖ローマ帝國(ドイツ帝國)の脱退を宣言し、一八〇六年八月、つひに神聖ローマ帝國は、成立から八四四年にして、解體を餘儀なくされた。そして、同年十月、プロイセンはイェーナにてナポレオン軍に大敗した爲、翌一八〇七年七月には對佛屈辱的講和條約「ティルジット條約」を結ばざるを得なくなる。この條約によつて、プロイセンは領内のダンツィヒを自由市とせねばならなくなつたばかりか、多額の賠償金を要求され、また北部ドイツ(舊神聖ローマ帝國内)の領地を總て奪はれてしまひ、領土が半減するに至つたのである。フィヒテが住んでゐたベルリンも一八〇六年からフランス軍の占領下に置かれ、ナポレオンはここを本拠地として、所謂對英「大陸封鎖令」などの樣々な指令を出したのであつた。