第一節 言語の發生とその性質

   一、人間一般における言葉のはじまり

   二、民族における言語のはじまり

   三、言葉における二つの性質

   四、超感覺的なものの表現

 一、人間一般における言葉のはじまり

 まづ、フィヒテは、言語はどのやうに發生し、祖先達によつてどのやうに發展させられて來たと考へたのであらうかといふ事を、フィヒテの言葉を辿りながら考へてみたい。但し、言語の發生といふ事について一つの見解を示してみても、それは證明出來る類ひのものではないので、この言語の發生について、如何に考へたら矛盾がないだらうかといふ點に重きを置いて、フィヒテは論を進めてゐるやうである。

 「元來は、人間が言語を話すのではなくして、人間の天性がこれを話すのである、それ故に同じ天性を有する他の人間にそれが通ずるのである、されば言語は唯一の且つ絶對的に必然のものであるといふべきである。」(第四講 p.80-81)

 まづフィヒテは、言語の發生は、人間の天性に基づいて起り來る發音器官の發聲から始まつたと語る。肉體的缺陷がない限り、赤い色は誰にでも赤く見え、丸いものは誰にでも丸く見えるといふ具合に、對象は個人の感覺器官に於いて一定のものに寫る。「丁度對象が個人の感覺器官に於いてそれぞれ一定の形、色等を以て示さるる如くに、社交的人間の機關たる言語に於ても、それはそれぞれ一定の音を以て表はされるのである。」(第四講 p.80)そして、その對象は「必ず或る一定の音になり、決して他の音とはなり得ぬ(第四講 p.80 )といふ原則があつたのだと考へられる。この原則こそ天性として人間が授かつたものであるとフィヒテは言ふのである。

 例へば、赤い色の林檎があつたとする。この林檎を見た者は、そこに色がある事を認識する。仮にその者がそれを「赤い」と言つたとするならば、その色がその者に同じ色に見えてゐる限り「赤い」と言ふであらう。又、別の物がその林檎と同じ色をしてゐると認識されたならば、その物についても、例外なく、「赤い」と言ふであらう。同じ色と認識してゐるにも關はらず、こちらは「赤い」、こちらは「青い」などとは決して言はないのである。赤い色といふ視覺的認識がある限りは、一定の音聲を以て表現されるのである。さう考へるならば、又、さういふ同じ天性を有する他の人間も、その林檎を赤い色だと認識し、「赤い」と言ふ筈であらう。從つてフィヒテの言ふとほり、「元来は人間が言語を話すのではなくして、人間の天性がこれを話すのである」と考へた方がよい。他の人間に言葉が通じたのは、他の人間も自分と同じ天性を有するからである、さう考へなければ言葉が通じ合ふ理由などはない、とフィヒテは考へたのである。

 二、民族における言語のはじまり

 「純人間的なる言語が先づ民族の發音器官と合して、その結果として民族の最初の音聲が響いたのである。」(第四講 p.82)

 フィヒテはまた、かうも言ふ。民族の言語とは、かうした天性を有する人間同士が共同生活をして行く中で、その發音器官が同一の外的影響を受けながら、絶へず意志の疎通をしつつ、共通のものとして發達させて來たものに他ならない。外的影響が異なる地域で共同生活を營む人々は、また別の音聲を發し、その人々に共通の言語が發達して行き、その民族の言語となつたのである。かくして「この民族が自己の認識を話すのではなくして、この民族の認識自身がこの民族の口を藉りて自己を發表するのであるといはなければならない」(第四講 p.81)と言ふのである。フィヒテは、我々の話す言葉が、我々の民族の認識であるといふ事を、まづ天性に基づく言語の發生、發展、といふ點から捉へたのである。

 三、言葉における二つの性質

 それでは、その言語の持つ性質を、フィヒテはどのやうなものと考へたのであらうか。フィヒテは、人間の用ゐる言葉には、二つの性質があると考へた。一つは、眼で見たり、手で觸れたりして知覺出來るやうな對象を表す手段となる、感覺的な性質である。そもそも言語が發生したのは、天性による感覺認識といふ事に基づいてゐるのであるから、言語は、感覺的なものを表はさうとする性質を當然持つてゐる。もう一つは、実際に眼で見る事も、手で觸れる事も出來ないやうな對象を表す手段となる、超感覺的な性質である。我々の認識といふものは、感覺器官が刺戟される事によつてのみなされるのではない。精神や心に直接刺戟を受けて認識される事もあるのである。從つて、かうした人の精神、心によつて捉へられたものを表はす性質も、言語にはあると考へられるのである。

 ともあれフィヒテは、單に言語の性質が如何なるものであるかといふ事を論じようとしてゐる譯ではない。言葉の持つ所謂超感覚的な部分を正確に表現する事が如何に難しく、またその言葉を正確に知らうする事が我々にとつてどれだけ大切であるか、といふ事を論理的に示さうとしてゐるのである。

 四、超感覺的なものの表現

 我々が超感覚的なものを表すには、感覺的な言語を用ゐて、感覺的なものに對比し、暗示させるより他になす術はないとフィヒテは言ふ。

 例へばドイツ語の「Gesicht」は、感覺的には、視覺、顏つき、外觀、樣相、幻想、幻影など、肉體の視覺よつてのみ知覺されるものを意味する事になる。ところがこの同じ語は、超感覺的な意味合ひからすると、「das zweite Gesicht」が「心眼」(直譯すると「第二の視覺」)といふ意味になるやうに、肉眼ではなく、精神の眼ともいふべき明晰な認識によつて把握せられ得るものを表す言葉になるのださうである。つまり「心眼」自體を我々は見る事も觸る事も出來ないのであるから、「 Gesicht 」といふ感覺的なものを表はす言葉を用ゐて、「肉體」の働きと對比させ、暗示させて行くしか表現の方法がない、と言ふのである。

 ドイツ語に精通してゐる譯でもないので、「Gesicht」の例に、ぴたりと當る日本語が思ひ付かないのだが、フイヒテの言はんとする、超感覺的なものは、感覺的言語によつて對比し、暗示させて表現せざるを得ない、といふ事に關しては、我々の使ふ日本語においても、事情は變はらないやうに思ふ。

 日本語の「眼」は、まぎれもなく、肉體の一部を指す言葉であるが、我々が「眼」といふ言葉を用ゐるのは、感覺的なものを表現するのみに止まらないであらう。自分自身の中で長いこと燻つてゐたものが、先生や、友との對話を重ね、書物を繙いてゐるうちに、突如として、ああ、かういふ事だつたのかと氣づかされる、さういふやうな經驗が、恐らく誰にでもあるであらう。さういふ時、今まで自分に見えなかつたものが見えてくるやうな思ひがして、心が澄んで行くやうに晴々としたり、又、むしろ我身の拙さを知り、ひしひしと骨身に應へるやうな事もある。いづれにしても、丁度、眠つてゐた自分が揺り起こされ、ぱつと眼を見開くやうに心が揺さぶられ、心が開き、精神が對象と向ひ合ふのである。無論この働きをさせる精神は、人に見せる事も、觸らせる事も出來ない、超感覺的なものである。そこで我々の祖先は、その心の働きを、肉體に於いて對象を視覺として捉へる働きと對比させる事によつて、表現しようとしたのである。視覺の働きをする「眼」のやうに對象と向ひ合ひ、その對象を捕捉しようとする心の姿を、我々日本人は「心眼」と呼び、さういふ風に心が開かれて行く事を「開眼」と言ふのである。故に、「眼が覺める」「開眼」などといふ言葉は、單に眠りから覺めたとか、眼を開けた、といふ肉體的意味に止まらず、その人の内的、精神的状態を表はす言葉ともなるのである。さういふ言語の働きとしては、ドイツ語における「 Gesicht 」が、感覺的なものを表はす言葉でありながら、且つ精神的なものを表はす手段として用ゐられてゐるといふ事と同じであり、またこの事は、ドイツ語においても、日本語においても、超感覺的なものを表はす際には、感覺的なものを表はす言語を用ゐなければならなかつたといふ事の、一つの證明にもなるのである。