まへがき 

 本稿は、ドイツの哲學者、ヨハン=ゴトリープ=フィヒテの生涯と、その著書『ドイツ國民に告ぐ』から、とりわけ言語に關する記述を基として、筆者の考察した處を記したものである。

 フィヒテは『知識學への第一序論』において、「人がどういふ哲學を選ぶかは、その人がどういふ人間であるかによつてゐる。といふのは、哲學體系といふものは、我々の好むままに捨てたり取つたりする事の出來る死んだ家具ではなく、それを持つてゐる人間の心によつて生命を與へられてゐるものであるからである」(岩崎武雄譯 原文當用漢字、新カナ)と語つた。あまりにも有名な言葉であるが、筆者は何とも言へない感動を受けた。フィヒテの學問はきつと本物だ、さういふ直觀があつたのである。そこで是非、フィヒテの聲が聽こえて來るまで、そして姿が見えて來るまで、その著作を讀みたいと思つたのである。フィヒテの前述の言葉によれば、フィヒテの哲學からフィヒテといふ人は現れ出て來る事になるからである。

 しかし、本稿で採り上げた『ドイツ國民に告ぐ』を讀み進めるのは、なかなか困難であつた。途中で何度か投げ出しさうにもなつたが、一時離れてもフィヒテの採り上げる問題は筆者の心から離れる譯ではなく、寧ろ續きを讀まねば大變な後悔をしさうな氣がしたものである。又『ドイツ國民に告ぐ』を讀んでゐるうちには、時折フィヒテの熱を帶びた口調を間近に感ずる時があり、フィヒテの唾が飛んで來るやうな思ひをした事が何度もあつた。本稿はさうした筆者の直觀を信じ續けて書き上げたやうなものである。

 第一章のフィヒテの生涯は、期せずして長文になつてしまつた。『ドイツ國民に告ぐ』を讀み進めつつ、フィヒテ自身の生涯を辿つてゐると、他ならぬフィヒテの生き方が、その學問の深い處に直結してゐるのではないだらうかと感じさせられたのである。フィヒテにあつては、「人がどういふ哲學を選ぶかは、その人がどういふ人間であるかによつてゐる」と自らが語つたやうに、自分の生き方と自分の哲學が一致してゐたのではないだらうか。その直觀は、フィヒテの生涯を辿るうちに益々強くなり、さうしたフィヒテの生き方、學問への取り組み方に大いに刺戟を受けたのであつた。そこで、このフィヒテの生涯を何としても記さなければと思ひながら書き續けるうちに、思はぬ長文となつてしまつたのである。筆者は終始かういふ調子であつたから、どの章においても、體系立てたものなどは何もないといふ事を豫め記して置かねばならない。

 なほ『ドイツ國民に告ぐ』のテキストは、大津康譯の岩波文庫版が一番しつくりとしてゐる感じがしたので、これを中心にした。他の譯書は適宜參照したが、本稿中の引用はすべて岩波文庫版に拠つた。また、大津氏の譯文は讀點が少い爲、引用に際して、讀み易いやうにと筆者が讀點を振つた箇處もある。