ドイツ製のテノールホルンやバリトンを購入して、使へさうな時に持って行くと、「あ、ヴァークナーテューバ」とか「あ、テナーテューバ」とか言はれることが多い。一度「あ、『惑星』のユーフォだ」と言はれたこともあったが(笑)。いづれにしても、少し樂器について詳しい人から言はれてしまふ。
ドイツやオーストリアでは、ユーフォニアムが使はれず、テナーテューバが使はれる。これらはオーケストラの中で発展してきた樂器であり、ヴァルヴもピストンではなく、ロータリー式が採用されてゐる。R.シュトラウスやG.マーラーもこれらの樂器を意圖して、オーケストラ作品の中に採り入れてゐる。
このやうな言説が、一知識として蔓延してゐるのであらうと思ふ。ワタシもかつてはそのやうに思ひ、他人にその知識をひけらかしてゐたものだった。しかし、實際にワタシがドイツのケルン(フィルハーモニー横のトンガー)とマインツ(かの有名なアレキサンダー)の樂器屋に行った時、テノールホルンやバリトンはあっても、テナーテューバといふ楽器は竝んでゐなかったし、當時のカタログにも載ってゐなかった。不思議に思ってゐたのだが、海外のカタログや樂譜をあたる内に、そもそもワタシの持ってゐた「テナーテューバといふ名のロータリー式の樂器があるといふ知識そのものが間違ってゐる」ことに氣が付いた。疑ふことすらしなかった前提を疑はざるを得なくなり、愕然としてやうやく事が理解出來たのだ。「テナーテューバ」とは主にパート名として存在するのであり、少なくとも現代に於いて「テナーテューバ」といふ獨立した樂器がある譯ではないのだった。*1 從って「テナーテューバと卵形のバリトンはどう違ふのか」といふ質問に對する答へは簡單明瞭「テナーテューバは主にオーケストラに於けるパート名、バリトンは樂器名」、たったこれだけのことなのであった。ロータリー式であるかとか、ボアがどうとか、卵形かどうかとか、さういふ次元の問題ではないのである。(これについては、次項「テナーテューバ 傾向と對策 − 樂器の見分け方」でも、さらに詳しく採り上げたい)
今もなほ、ロータリーのテノールホルンやバリトンが、ヴァークナーテューバと間違へられたり、「あれは、テナーテューバといふ樂器なんだ」と言はれてしまひ(しかもこの言ひ方は、ある種のインテリジェンスを披露してゐるやうにすら聞こえることがある)、そして「テナーテューバと卵形のバリトンはどう違ふのか」といふ質問が後を絶たないのか、それらについて考へてみたい。そして、ワタシ自身、自分で調べてゐなかったにも關らず、「この樂器はテナーテューバと言って云々」と物知りぶりを氣取ったが故に、かつて間違った知識を植ゑ付けてしまった方々へのせめてもの罪滅ぼしと、ワタシのやうな間違ひをして頂きたくない同胞諸兄への道しるべとして、この項を書くこととしたい。
まづ、「ヴァークナーテューバ」と間違はれてしまふのは、ヴァークナーテューバと卵形のテノールホルンやバリトンとの形状が、お互ひによく似てゐるからであると思はれる。*2 しかし、よく見れば、實際のヴァークナーテューバは、まるで鏡に映したやうに、テノールホルンやバリトンとは全てのパーツが逆向きである。ヴァークナーテューバは通常はホルン奏者によって演奏される爲、ロータリーヴァルヴのレバーを左手で操作出來るように造ってある。勿論、マウスパイプは、ホルン用のマウスピースがはまるやうにレシーバーが出來てゐる。ここまで違ふのであるのに混同される(と言ふか「ヴァークナーテューバ」と断定されてしまふ)のは、我々がヴァークナーテューバを見慣れてをらず(雑誌などで見たことはあるといふ程度)、ロータリーのテノールホルンやバリトンはなほのこと見慣れてゐないことに原因があらう。ヴァークナーテューバの卵のやうな形状を目にすると、「なんだ、これは!?」といふ好奇心をかき立てられる。多分、ドイツ人がヴァークナーテューバを見ても、こんなに驚きはしないであらうが、我々は違ふのである。興味津々でそれを見て、「これがヴァークナーテューバか!」と印象づけられるのである。まぁ、我國では、ヴァークナーテューバの方がちょっとばかり有名なところに、テノールホルンやバリトンの悲劇が發祥してゐると見てよいだらうと思ふ。
參考までに、ドイツB&S社のテノールホルン、バリトン、ヴァークナーテューバのB管、F管の畫像を掲載する。「鏡に映したやうに」の意味が、よくお判り頂けると思ふ。
續いて、ロータリーのテノールホルンやバリトンが「テナーテューバ」と言はれてしまふ理由について考へたい。これはもう、テノールホルンやバリトンがピストン・ヴァルヴを使用せず、ロータリー・ヴァルヴを採用してゐるといふことが、最大の原因だと思はれる。もしも、バリトンがロータリーヴァルヴではなく、ピストンヴァルヴを採用してゐたら、恐らくテナーテューバと呼ばれることはなかっただらう。現に、ユーフォニアムをテナーテューバと呼ぶ人は、我國では非常に少ない。かうしたロータリーヴァルヴのテノールホルンやバリトンが登場するのを我々日本人が目にしたのは、吹奏樂ではなく、主にオーケストラの舞台であった。R.シュトラウスやG.ホルストのスコアに登場する「Tenor Tuba」「Tenortuba」のパートを受持ってゐたシーンを見て、「あれがテナーテューバか!」といふ印象を強烈にたたき込まれてしまったものと思はれる。
しかし、ドイツ人が、ユーフォニアムを見て、テナーテューバと言ったらどうであらう。彼らにとっては、ユーフォニアムはピストン式のテューバを小さくした物だから、テナーテューバと呼ぶのも仕方がないといふことになる。もし、そのことに違和感を覺え、ユーフォニアムはユーフォニアムと呼ぶべきだと言ふのであれば、バリトンもバリトンと呼ぶのが筋といふものだ(笑)。
我國でテナーテューバと呼ばれてしまふテノールホルンやバリトンは、ドイツやオーストリア、東欧の吹奏樂で、ごく普通に用ゐられてゐる。勿論さうした吹奏樂曲の中には、ソロだってある。また、民族音樂を演奏するバンドでも使はれる。それさへ知ってゐれば、テノールホルンやバリトンをテナーテューバと言ふことも、これ程までに浸透などしなかったのではないかと思ふ。もしかしたら、それらを「ユーフォニアム」と呼ぶやうになってゐたかも知れないが(笑)。元を辿れば、我國の吹奏樂に携る人が、各國の吹奏樂に興味を示さないで來た事、ちゃんと紹介しないで來たことにも原因がありさうだ。しかし、それを非難したいとは思ってゐない。
かつては情報入手する機會も少なく限られたものだったであらうが、今や世界中の吹奏樂や各種管樂のCDや文献が、ずっと容易に手に入る時代になったのである。もし我々若い世代が、先達から傳へられた知識の蓄積と、現在の情報収集機會の大幅な拡大といふ恩恵に預かっておきながら、より正確な知識を發見することに目を向けなかったとしたら、我々は、既存の概念や知識に胡座をかくが如き、怠慢なる人種に堕落してしまふのではあるまいか。
すっかり、テナーテューバといふ呼稱が定着してしまったかのやうな現状に、歯をむき出して逆らひたいとは思はない。勿論、これまで「テナーテューバ」を紹介して來た方々を非難したいとは思ってゐない。よく誤解されるやうなのだが、非難したいがためにここまで書き綴ったのではない。しかし、本音を言へば、「吹奏樂とブラスバンドは違ふんだ!」と仰る方がいっぱいゐるのだから、これらの樂器についても、「そこまで區分するのは專門的過ぎる」などとせず(專門家を稱するやうな方々が、今なほ正しい知識を語れてゐないところが問題だといふのに)、そして自分の知識や前提が覆されることを恐れずに、ちゃんと理解し、分けて呼ぶ努力をし、何より、心ある方々はこれ以上謝った知識を流布しないで頂きたいと切に願ふ次第である。
それがどうしても出來ないといふのであれば、もういっそのこと、ユーフォニアムも日頃からテナーテューバと呼ぶ方がいいかも知れない。
*1. 1850年頃に、ヴァイマールのヴィープレヒトが、モリッツに「テノールテューバ」を作らせたが、これは現代言はれてゐるテナーテューバとはまるで違ってゐる。それどころか、このテノールテューバは、なんとユーフォニアムの元祖である可能性が出て來た。詳しくは、『ユーフォニアムの歴史 その2「ゾンマーの發明した Euphonium」?』を參照して頂きたい。目下情報収集中である。
*2. 大體、ヴァークナーテューバの方が、テノールホルンとかバリトンを元に作られたと考へられるのだが、それはまぁ、いづれ書くことになると思はれるので、ここではとやかく言はないでおかう。
3. 未だ呼稱の混乱が續く中、テナーテューバに特化したサイトが設立され、話題を呼んでゐる。管理者はなかなかこの手の樂器に詳しく、色々と勉強になる。興味を持たれた方は、是非ご覧頂きたい!
テナチュー いとおかし
http://www.max.hi-ho.ne.jp/hiro-hoki/index.htm
4. 參考までに、テナーテューバの範疇にあると考へられる樂器を表にしてみた。各樂器については、徒然草の「各國のユーフォニアム」または「各社のユーフォニアム」を併せて參照のこと。
ヴァルヴ 樂器名 製造國 調子 ロータリー Tenorhorn チェコ、ドイツ、オーストリアなど B♭ ロータリー Bariton チェコ、ドイツ、オーストリアなど B♭ ロータリー Wagnertuba (B♭管のみ) チェコ、ドイツ、オーストリアなど B♭ ピストン Baritone Horn イギリス B♭ ピストン Euphonium イギリス B♭ ピストン Baritone アメリカ B♭ ピストン Saxhorn baryton ベルギー、フランス B♭ ピストン Saxhorn basse ベルギー、フランス B♭
5. 日本の某有名奏者によるユーフォニアム教則本に、テナーテューバの項目が設けてあり、樂器の説明がされてゐる。正に、日本國内に蔓延してゐたテナーテューバについての誤解の代表格と言はざるを得ない。そして、未だにこの項の内容は變ってゐないのが殘念である(涙)。これでは、専門家ほど、知らないことをもっともらしく語るものだ、といふことになってしまふ。そして、その見解が「正しい」ことであるかのやうに、世の中に蔓延してしまふことになる(といふかなってゐる)のである。ユーフォニアム、テューバなどの樂器についての研究を、お互ひに發表し合へるやうな場が設立されることを切に望んでゐる。
無斷轉載ヲ禁ズ
Hidekazu Okayama